INTERPRETATION

第427回 ゾーンに入る

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

スポーツ用語で「ゾーンに入る」ということばがあります。私がこの言葉に初めて出会ったのは、先週担当させていただいた「ATPカップ2020」というテニス大会の同時通訳現場でした。

その日、私は優勝選手のインタビューを同時通訳するため、テレビ局の控室に待機していました。そこではスタジオで実況中継する担当者とゲストのやりとりが画面で放送されていました。その中で実況中継の男性が「ゾーンに入ったことはありますか?」と、元プレーヤーでもあるゲストに尋ねていたのです。

「ゾーンに入る」を調べると「極度の集中状態」という意味がインターネットではヒットします。非常に高い集中力の下に身を置くと、雑音や他の人の考え、周囲の風景などは気にならなくなる、というのがこの言葉の意味です。

では通訳者はどうでしょうか?通訳業も極度の集中を求められる仕事です。私の場合、話者の発言やノンバーバルメッセージなどにも注目していますので、非常に集中して神経を研ぎ澄ませているのは確かです。しかし、だからとて周りが全く気にならないわけではありません。むしろその逆と言っても良いでしょう。

もちろん、防音の施されたブースで同時通訳する方が、周囲の音が漏れ聞こえてくる会議室のウィスパリング通訳よりはるかに集中できます。しかし、たとえ同通ブースであっても、必ず集中できるとは限りません。同通ブースで複数の通訳者が入った際には、同時通訳をしている本人の隣の通訳者は、メモ取りなどのサポートをします。あるいは、自分の担当分の資料を事前に読み込んでいたりもします。私の場合、自分が集中モードに入っていれば、こうした隣の動きは気になりません。けれども、体調が今一つであったり、集中力が発揮できないときなど、こうした同室内の動きが気になることもあるのです。よって、私の場合、そう簡単に「ゾーンに入る」ことにおいては、まだまだ発展途上と言えるでしょう。

一方、別の意味での「ゾーン」は何度か経験したことがあります。

一つ目は2006年11月末のこと。敬愛する指揮者マリス・ヤンソンスがロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団を率いて来日公演をおこなったときのことでした。

海外オケの来日公演では、東京で複数回コンサートをおこなうほか、地方でも演奏会が開かれます。私がその日、聴きに出かけたのは所沢市民文化センター・ミューズでのコンサートでした。選んだ理由は「東京のプログラムよりも好みの曲であったこと」と「現在住んでいる埼玉県内のホールなので、一度は行ってみたかった」というものでした。

前半のプログラムはベートーベン。休憩をはさんでマーラーの交響曲第一番「巨人」が始まりました。

コンセルトヘボウは弦楽器が美しいとよく言われます。ただ、私自身、純粋にヤンソンスのファンであったという基礎レベルにとどまっており、演奏に関してコメントできるほどクラシックに詳しいわけではありません。その日も純粋に「巨人」が楽しみであったという心境でした。

しかし、「巨人」の第2楽章で私は大きな衝撃を受けたのです。

それは今まで聴いたことのない弦楽器の美しさでした。

言葉ではうまく表現できないのですが、まるでビロードのつやつやした上に我が身を置いたような、そんな感覚を味わったのです。それは何とも幸せなものであり、その気分のまま音の奏でられる状況を慈しんでいったのでした。

そしていよいよ最終楽章。終わりが近づいてきました。そのとき初めて私はコンサートの場において「ああ、終わってほしくない。このまま永遠に続いてほしい」と切に願ったのです。

あのような気持ちになったコンサートというのは、今までの人生であの所沢の演奏会だけです。

所沢のホールは立派なホールであり、音響もよく考えられて設計されています。けれどもそれ以上に、コンセルトヘボウの持つ音色、そしてそれを引き出したマエストロの情熱があのような音になったのでしょう。それが私の心に研ぎ澄まされたような集中力と喜び、そしていわゆる「ゾーン」を与えてくれたのだと思います。

もう一つ「終わってほしくない」というゾーン状態を体験したことがあります。

久しぶりに会った友人との食事会でした。

お互い忙しい中での夕食でしたので、時間にしてみればわずか3時間ぐらいだったと思います。賑やかな店内で旧交を温めたのですが、すぐ隣の席の話し声や店内の騒々しさが全く気にならないぐらい、話に集中できました。非常に楽しい夕べで、それこそ先のコンサート同様「終わってほしくない」と思ったものでした。電車の時間が無ければ時を忘れて話し続けたかもしれません。これも「ゾーン」状態だったと思います。

このようにして考えると、「ゾーンに入る」というのはその時その時に応じてできるのでしょうね。その状態において、人は特別な感覚を味わうことができます。そしてその極度の集中状態というのは、実は大きな幸せをもたらしてくれるものでもある。そのように私は考えているのです。

通訳の仕事というのは、集中力が求められ、脳を酷使するものです。けれどもそれと同時に、「人のお役に立てる」「極めて大変な作業にチャレンジする」ということは、生きていく上での大いなる動機づけになると私は思っています。

(2020年1月14日)

【今週の一冊】

「ヴェルディへの旅―写真とエッセイでたどる巨匠の生涯」木之下晃、永竹由幸著、実業之日本社、2006年

ヴェルディに本格的に惹かれるようになったきっかけは、1998年に携わった通訳業務でした。サントリーホールで行われたホールオペラです。オーケストラをバックに海外からのソリストたちを迎え、ホールオペラ形式でヴェルディの「ナブッコ」が上演されました。私は庶務兼英日通訳者としてお手伝いする機会をいただきました。

「ナブッコ」と言えば、「行け我が思いよ、金色の翼に乗って」という曲が有名です。作品自体のテーマは旧約聖書に出てくるバビロン捕囚なのですが、ヴェルディがこの作品を作った当時のイタリア・ミラノはオーストリアによる植民地支配下にありました。この曲を聴いた当時の聴衆は、イタリア独立に向けた思いを重ね合わせ、熱狂したそうです。

本書は音楽家のポートレートで有名な写真家・木之下晃氏と、音楽評論家・永竹由幸氏による共同執筆です。カラーでヴェルディゆかりの地が沢山紹介されています。また、永竹氏の非常に軽妙でいてわかりやすい文章が読者を惹きつけます。

「ナブッコ」をヴェルディが完成させたのは28歳のときでした。しかしそれ以前にヴェルディは大きな悲しみを経験しています。幼い二人の子どもたちの死です。25のときに長女を、26で長男を失い、27歳になると妻も病死してしまいます。そうした中、書き上げたのが「ナブッコ」でした。

後にヴェルディはソプラノ歌手のジュゼッピーナと結ばれます。私もヴェルディの妻がジュゼッピーナであることは知ってはいましたが、ここまで色々と紆余曲折があったことは本書を読んで初めてわかりました。そのあたりの様々な人間模様はぜひ本書を紐解き、永竹さんの文章を味わって頂ければと思います。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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