第422回 マエストロへの感謝
長年深く深く敬愛してきた指揮者のマリス・ヤンソンス氏が亡くなりました。76歳でした。ずいぶん前に公演中に心臓発作を起こし、その後は埋め込み型除細動器を入れた状態で世界各地でタクトを振り、名演奏で多くの聴衆を魅了してきました。
このコラムでも私のヤンソンス好きについて何度か書いたことがあります。少し繰返しの部分もありますが、追悼の意味を込めてということでご容赦ください。
私がヤンソンスの公演を初めて見たのはロンドン大学留学中の1993年から94年にかけてでした。意気込んで大学院に入ったものの、9か月コースという過酷な院生活に疲労困憊し、体調も崩し、帰国への思いは募りと精神的にかなり参っていたころでした。イギリスの冬の寒さや日照時間の短さ、太陽がほとんど見えないという日々もこたえました。退路を断って貯金をすべて留学用につぎ込んだ状態でしたので、おめおめと帰るわけにもいかない状況でした。
学生向けに格安のコンサートチケットがあることを知ったのは、渡英からしばらく経ったころでした。最高価格のS席が売れ残っていた場合、開演直前になると学生料金の破格で放出するというものだったのです。煮詰まっていた私はテムズ川南岸にあるロイヤル・フェスティバル・ホールへ出かけました。そのときにロンドン・フィルを振ったのが当時客演指揮者だったヤンソンスだったのです。
それまでの私は、指揮者というのは誰も同じような感じで振っているという印象しかありませんでした。けれどもヤンソンスは違いました。背筋を伸ばし、タクトや指先にまですべての神経が注がれ、舞台上のあらゆる楽器に花を持たせる、主役にさせる、そんな振りでした。ヤンソンスのタクトの先にある楽器を見ると、ああ、今はこの楽器が際立つ部分なのだなとわかるのです。
終演後の拍手の中、ヤンソンスは必ず楽団員の方を手で示し、彼らこそ拍手に相当するというメッセージを観客に送っていました。名演奏を奏でられるのもオーケストラがあってこそというヤンソンスの優しさと謙虚さがにじみ出ていたのです。ことばは発せられなくとも、その雰囲気からお人柄が感じられました。そこに惹かれた私はヤンソンスを尊敬するようになったのです。
厳しい大学院生活を支えてくれたのはヤンソンスのコンサートでした。当時はオスロ・フィルの常任指揮者でしたが、何度かロンドンに来ていました。コンサートの日時が私にとり勉強の励みとなりました。
94年6月。晴れて修学期間を終えて真っ先に私が向かったのは、ハイドパーク南側にあるNational Sound Archiveという音声古文書館でした。ここにヤンソンスのイギリスにおける演奏やインタビューなどがすべて保管されているのを知った私は連日通いつめ、すべての録音を聴きました。今ほどコンピュータのデータベースなどが無かった時代です。学芸員の方の助けを得ながら目録を探し出し、朝から晩まで聴く日が続きました。インタビューを聴けば聴くほど、音楽への愛情や造詣の深さ、穏やかなお人柄がにじみ出ているのがわかり、私はやがて師と仰ぐようになったのです。「留学時代の私を支えていただけたことに感謝したい」との思いをしたためてマネジメント会社経由で手紙をお送りしたところ、数か月後にはサイン入りのポートレートが帰国後の私の実家に届きました。ファンを大切にして下さっているヤンソンスならではの優しさでした。
以来、来日公演は欠かさず出かけました。昨秋は病気で降板となったため、今年1月に私はロンドンまで聴きに飛びました。私にとってのヤンソンスの公演は、あれが最後でした。でも思い切って出かけて本当に良かったと思っています。同じ空間で美しい音楽を味わえたのは恵みだったと感じます。
数々のインタビューの中で語られたヤンソンスの音楽に対する解釈を、私はすべて通訳者としての自分の在り方に置き換えていました。指揮者というのは作曲家のメッセージを聴衆に届けるということ、その曲を理解するためには作曲者が生きた時代や背景知識を理解する必要があるということ、「ハチミツに砂糖を加えてはならない」(すでにあるものに必要以上のものを足してはいけない)というメッセージなどは、ことばを生業とする私に響きました。
楽団員との関係構築についても、同じ人間として優しく接しているのが印象的でした。音楽的な要求に関しては、自分にも楽団員にも厳しく求めていく。けれどもその根底に必要なのは相手に対する敬意であり、楽団員と指揮者が主従関係になってはいけないというのが持論でした。これは現在、私が指導をする上での大切な哲学になっています。
私にとって大きな支えとなったヤンソンス。師と仰げる人物に出会えたのは、私にとり恩恵でした。音楽と通訳。異なる世界ではありましたが、私の職業人生に多大な影響が与えられたことを本当にありがたく思っています。
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