INTERPRETATION

第70回 プロは道具を大切にする

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

先日子どもたちとカフェで昼食をとりました。駐車場がたっぷりあり、挽きたてのコーヒーに軽食がいただけるお店です。カウンターの禁煙席に3人で並び、目の前のサイフォンを眺めながら食事が出てくるのを待ちました。ところがその間、なぜか居心地の悪さを私は覚えてしまったのです。

理由は、不必要な音が多かったからでした。いえ、BGMや他のお客さんたちのおしゃべりではありません。目の前の店員さんが二度も立て続けにお皿を割ってしまったことが一つ。これについては、もしかしたら体調が悪い中仕事をしていて仕方なかったのかもしれませんが、大きな割れる音が店内に響き渡ったものの「失礼しました」の一言もなく、さらに数分後にもう一皿ガシャーンと音を立ててしまったのです。

もう一点は、一つ一つの作業に音が伴っていたことでした。出来上がったお料理のお皿をドンと置く、やかんから熱湯をザーッとしぶきを飛ばしながら音を立ててサイフォンに注ぐなど、すべてにおいて「ドンッ!ガシャッ!」という具合でした。さらに観察してみると、スタッフの方たちはいずれも無表情。オーダーの取り方も棒読みです。せっかくおいしいコーヒーに珍しいカフェランチを提供しているのにと残念に思いました。

ところで私は4月9日のこのコラムで近所のカフェマスターを紹介したことがあります。たまたまコーヒー豆を買いに出かけたところ、せっかくですので試飲もどうぞと勧められたお店です。そのマスターはコーヒーをこよなく愛し、丁寧に丁寧に一杯を淹れてくださいました。お湯の注ぎ方、カップの扱い方など、いずれも静かに慈しむように作業を進めていたのです。

つまり、真のプロというのは自分の道具を愛し、大切にするということなのです。イチロー選手がバットやグラブをきちんと磨いていたのは有名ですよね。自分がその仕事に携わる以上、やはり道具も大事にしてあげるべきだと私は思うのです。先のドライブイン型カフェであれば、作業を丁寧に行い、スタッフが余裕を持って働く環境が求められると私は考えます。

私が通うスポーツクラブでバーベルレッスンを担当するインストラクターも、「バーベルはやさしく床に置いてください」とレッスン中何度も指示を出しています。また、先日参加した自然観察教室では講師を務めてくださった野草研究家の先生が、「お花を『取らせていただく』という感謝の気持ちを持ちましょう」とおっしゃっていました。いずれも自分の道具を大切にしていることの表れです。

そういえば子どもの頃、私は「だめの子日記」という本に感銘を受けたことがあります。著者の光吉智加枝さんは通学途中、大型トラックに轢かれて命を落としてしまうのですが、それまでの日記は自省と感謝にあふれています。本の中では光吉さんが、小さくなった鉛筆も大切に削り、保管していた様子が巻頭の写真に収められていました。「自分を作ってくれた大切なものだから」と捨てずにおいたのだそうです。

そう考えると、私の場合、通訳現場のヘッドホンやマイク、スイッチ、作業する机やPCなど、もっと丁寧に扱いたいと改めて思います。特に私の場合、パソコンキーボードのタッチがとても強くて音も大きいので、要反省です。また、電子辞書のスクリーンやキーも気が付けば拭かずじまい。これではいけませんよね。そして一番大事なのが、通訳者として自分が発する「ことば」。より丁寧に使わなければと思います。日ごろからいい加減な話し方をしない、美しい言葉を選ぶなど、意識していきたいと思っています。

(2012年5月14日)

【今週の一冊】

「波」2012年4月号 新潮社

私は書店に出かけると必ず無料のミニコミ誌を入手している。パンフレット系のものもあれば、出版社が発行する新刊紹介誌もある。今回ご紹介するのは新潮社が発行する月刊誌「波」。内容は新潮社の新刊書のPRがメインなのだが、著名人や作家の連載やインタビューなどがたくさんあり、読みごたえがある。

ここ数か月気に入っているのが、「高峰秀子の言葉」(斎藤明美著)というコラム。9回目の4月号には副題で「忙しい時ほど余裕を持たなきゃいけないよ」という高峰さんの言葉が引用されている。

斎藤氏によれば、高峰さんは現役時代、女優・主婦・家事・執筆と何足もの草鞋を履きながら多忙な生活を送っていた。しかし、それでも慌てず雑にせず、合間に染色や庭仕事、読書もしていたのだそうだ。

高峰さんの夫で映画監督の松山善三さんはそんな高峰さんについて、

「かあちゃんはノロいけど、速いんだよね」

と表したそうだ。一見矛盾した言い回しではあるが、一つ一つの作業を丁寧におこなうからこそ、結果的にはきちんと成し遂げることができるのである。

「ノロくても速い」

この一文に遭遇した私は早速この一言を手帳に書き留めた。そんなかけがえのない一言に巡り合えるのも、ミニコミ誌の良さなのだと思う。ちなみに「波」の裏表紙には「定価100円」とあるが、大型書店であれば、PR誌コーナーに山積みされている。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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