INTERPRETATION

第408回 仕事量の加減

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

我が家の長男はロンドン生まれです。その当時私はBBCでフルタイムスタッフとして勤務していました。幸い雇用主から出産・育児休暇を認められ、復職1か月前から慣らし保育を始めて生後7か月で復帰しました。正社員のメリットは、仕事を休んでいる間も雇用が保証されるという点です。

放送通訳というのは、日々の積み重ねで通訳力を向上させていきます。毎日コンスタントにスタジオで同時通訳をすることにより、瞬発力や記憶力も鍛えられます。一方、ニュースというのは連続性のあるもの。ゆえに長期に休んだ場合、きちんとニュースをフォローしていないと世界を鳥瞰図的に見るのが難しくなります。

私が育休中に一番心配したのはこの点でした。今でも私は旅行先で現地の新聞を買ったり、ネットのニュースをチェックしたりして置いてけぼりにならないようにしています。BBC時代、復帰後はかなり通訳力も時事問題知識も怪しくなっていましたが、それでもやはり大事なのは毎日コツコツと続けることなのでしょう。幸い復帰から程なくして時事問題には何とかついていけるようになりました。

その2年後、下の子が生まれたときの私は帰国してフリーランス状態でした。再び現場に復帰できるという保証はありません。小さい赤ちゃんを前にしつつ、エージェントからご依頼が来てもその時点ではお断りしてしまうという日々が続きました。「一体いつになったら復帰できるのだろう?」という思いが浮上するたびに、「あ、でも考えてみたら自分は今フリーランスだった。復帰の時期も、カムバックに向けた仕事の営業も自分でやらなければいけないのだ」と我に返ったものでした。

当時の私は「認可・認可外保育園」の事情に詳しくありませんでした。むしろ大事なのは、とにかく復帰の目標時期を定めたら早めに慣らし保育を始めるということでした。「認可保育園が空くまで」「応募に適した時期が到来したら」と考えるよりも、とにかく行動した方が早いと考えたのです。幸い近所の私設保育園に預けることができたため、そこから本格的に復帰し、現在に至っています。

「フリーランス」というのは聞こえの良い言葉です。しかし、裏を返せば「仕事が無い=無収入」です。正社員のように福利厚生もなければ定期代すらありません。好きな仕事をしながら、また、猛勉強の機会を頂戴しながらお給料をいただくことを人生の喜びと考える人が、通訳業界を支えていると言えます。通訳者というのは業務から受けるプレッシャーも高く、自己管理や自己規律、緊張感なども求められます。心身ともにチャレンジングな仕事です。それでもこの仕事をこよなく愛しているからこそ続けられるのだと思います。

長きにわたり、この仕事に携わっていると、子育て以外にも仕事のペースを緩める状況に直面するかもしれません。自分の体調や病気、家族の健康問題や介護など、生きていれば様々なことが浮上します。現役・全盛期のまま通訳力を低下させないのが理想ではありますが、そうはいかないのが人生です。フリーの場合、「仕事をお断りすること」には強い抵抗感や罪悪感が伴います。しかも自分の個人的な理由でのお断りではなく、外的な要因でお断りするには勇気がいります。「ここで断ってしまったら、仕事が来なくなるのでは?」「せっかくの新しい分野の通訳なのに、今受けなかったらもうチャンスは到来しないかも」「お世話になったコーディネーターさんからご依頼いただいたのに」等々、お断りメールを書きながら心が痛むことがあります。

けれども、フリーであるからこそ、自分の心身や置かれた状況を客観的に見つめ、業務を受ける・お断りするということをしっかり考えねばなりません。自分に相当無理をして完璧に通訳業務を遂行したとて、もしその後に自分や周囲にダメージや悪影響が及んでしまえば、修復はより難しくなります。

だからこそ、仕事量の加減というのは真剣に考える必要があります。

夏休みも間もなく終わり。いよいよ通訳業界の繁忙期・秋がやってきます。

(2019年8月20日)

【今週の一冊】

「古生物のサイズが実感できる!リアルサイズ古生物図鑑 古生代編」土屋健著、技術評論社、2018年

紙の新聞を欠かさず読む理由の一つに、「新刊書のチェック」があります。書店へ出向かなくても新聞の下に出ている書籍広告を読むと、最近の流行がわかりますし、意外な本と出合うこともできます。それが楽しくてせっせと新聞をめくる日々です。

今回ご紹介する一冊もそのようにして遭遇しました。私は元々文系人間です。だからこそ、意識的に理系の本を読みたいと思います。高校時代の生物の成績はイマイチ。よって、本書はそのような昔の勉強の記憶をおさらいする上でもうってつけでした。

この本は実にユニークです。遥か彼方の昔に生きた古生物を、現代の視点でとらえ、その大きさがわかるように私たちの日常生活の中に溶け込ませるような写真で映し出されているのです。たとえば表紙の生き物は「ディメトロドン」。説明を読むと、「古生代の陸上世界において最大級の肉食動物」とあります。通常の図鑑であれば、「体長3.5m」という表記にとどまりますが、この写真からわかる通り、あえて自動車と並べることでサイズが把握しやすくなっています。

他にも「立てかけられたサーフボードと並ぶペンテコプテルス」や「イカのお寿司と並ぶネクトカリス」など、よ~く目を凝らさないとわからないのが面白いところです。

なかなか日常生活ではこうした古生物と触れ合う機会はありません。美しい写真集ととらえて親しむ絶好のチャンスと言えるでしょう。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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