第399回 通訳者のホンネ
通訳学校に通っていたころ、「来た仕事はできるだけ受けるように。選り好みせず、幅広く請け負い、経験を積み重ねるように」とのアドバイスを講師からいただきました。「〇〇分野の通訳をしたい」という思いはもちろん大切です。けれどもまだひよっこの身です。最初から「私は〇〇しか受けません」などと言ってしまえば、自分の成長の芽を摘んでしまうことになります。
私の場合、ボランティア通訳を始め、空港の出迎え、国際会議場の受付業務などもおこないました。そこから少しずつレベルを上げて頂く機会に恵まれました。簡単な商談通訳、少し込み入った会議、小規模の同時通訳、国際会議の同時通訳や放送通訳など、この世界には様々な業務形態があることも知りました。
現在私は放送通訳の割合が多い状況です。よって、国際政治などは日頃から触れています。このテーマであれば比較的自分でもお役に立てるのではと考えます。また、医学、芸術、スポーツなど、ニュースに取り上げられるぐらいのレベルであれば対処できるのではとも感じています。基礎的な内容ならばという状況です。
では、未知のテーマを依頼されたとき、通訳者というのはどのような思いを抱くのでしょうか?
専門分野を持つ場合、経験を積み重ねるほどリピーターのクライアントさんも増えていくと思います。ただ、私の専門はあくまでも「放送通訳」です。「金融」「歯科学」「IR」「考古学」という具合で特定分野の高度な専門性は残念ながら有していません。そうした中、私にとってハードルが高いトピックの依頼があった場合、どのような感情が沸き上がるのでしょうか?
ご依頼をいただいた際にいつも抱くのは、以下のような思いです:
「ちょっと難しそうなトピックかも。でもここで一頑張りすれば私の成長にもつながる。だから勇気をもってお受けしよう!」
この世界に入ってからずいぶん年月が経ちました。それでもなお、私はご依頼をいただくたびにこのような感情を抱きます。武者震いのような感じです。
このようにして業務をお受けするわけなのですが、それから当日まで順風満帆かと言えば、決してそうではありません。猛勉強しながらいつも以下のような思いが湧き出てきます:
「ああ、やっぱり私には役不足なのではないか?もっと私よりも優れた通訳者が専門性を持って対処できるのでは?一生懸命予習こそしているけれど不十分なのでは?やっぱり自分の実力はまだまだだ。ああ、あの時お受けしてしまったのは正解だったのだろうか?」
このような感じです。
通訳業務というのは「試験範囲」があるわけではありません。要は、勉強すればするほど先が永遠に思えてきます。「もっと学ばなければ」「しっかりと当日通訳できるようにするためにも、今の自分の勉強ではぬるすぎる」と思えてしまうのですね。
とは言うものの、受けてしまった以上、頑張るしかありません。人事を尽くして天命を待つのみです。必死に予習をする。当日は誠意をもって通訳する。それしかないのです。
その覚悟さえあれば、通訳の世界は自分に大きな幸せをもたらしてくれます。
(2019年6月11日)
【今週の一冊】
「教養は『事典』で磨け ネットではできない『知の技法』」成毛眞著、光文社新書、2015年
著者の成毛氏は大学卒業後、自動車メーカーなどを経てマイクロソフトでトップを務めた方。すでに多くの著書を出しておられます。今回ご紹介するのは、教養力を身に付ける上で事典を活用することを勧めている一冊です。しかもポイントは「紙版の事典」であることです。
デジタル全盛期の今、スマートフォンやPCであっという間に物事を調べられますよね。でもあえて紙の視認性や寄り道の良さを再認識することも大切だと私は感じています。本書で取り上げられているのは民族百科事典、理科年表、死語事典に至るまで多岐にわたります。通訳者にとって役立つ三省堂の「てにをは辞典」もありました。
どの図書館でも辞書・事典の類は一か所に集約されています。棚の間を歩きながら意外な分野の事典に触れるのも楽しいことでしょう。本書の中で特に私が注目したのが草思社の「こんなにちがう 中国各省気質」です。中国と言えども広大です。日本も県民性で違いがありますが、お隣・中国の省同士の比較も面白いことでしょう。
もう一つ、本書の特徴は新書サイズと比較した大きさが図示されている点です。事典というと重くて大きいというイメージがありますが、そうではない事典もたくさん発行されていることがわかります。
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