INTERPRETATION

第398回 「伝わる」ということ

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳者になってしばらくしてからのこと。仕事で必要な単語をどのようにして整理するかで迷いました。周りを見渡すと、エクセルに入力して整然とした単語リストを作成している方々もおられます。「うーん、私もやっぱり本格的に作った方が良いかしら?エクセルなら並べ替えもできるしあとから参照もしやすいし」と思ったのですね。

少しトライはしました。けれどもうまくいきませんでした。私にはゼロからエクセルの使い方を覚えている時間がもったいなく思えたからです。「こんなに複雑なら、その間に一つでも二つでも単語を覚えられるはず」という思いが先行しました。そして結局、デジタル化はあきらめたのです。ノートに手書きする、あるいは紙辞書に下線を引くという、極めて原始的な方法で落ち着きました。そして今に至っています。

こうしてとらえると、時代のデジタル化と私の能力の乖離が浮き彫りになります。世の中はどんどん高度な技術を用いて便利になっている。それなのに私は昭和のままと思わざるを得ません。

もう一つ例を上げましょう。パワーポイントです。私の場合、これまでの授業でさほどパワポを使わずに済んできました。その一方、外部の講演会などに出かけて一学習者として参加してみた際、美しいスライドを目にします。「やはりあのような視覚的資料は大事よね。いい加減私もできるようにせねば」と痛感するのです。そして取り掛かってみます。けれども見よう見まねで作成するには時間がかかり過ぎます。不慣れだからです。「ああ、これに時間を費やしている間に一冊でも二冊でも本が読めたはず。英文を読んでもっと単語や表現力アップの時間に充てたいのに」という焦りが出てきます。「パワポの上達よりも知識をストックしたい。そうする方が通訳現場でも授業でも役に立つのに」と思ってしまうのです。

それでも何とか最近になり、基礎的なパワポは作れるようになりました。けれどもその一方で、近年受講した外部レクチャーで強烈な印象を受けたことを思い出します。「パワポもその他資料もゼロ。トークだけで実に充実したセミナー」をなさった先生方です。話が活き活きとしており、聴衆をグッと惹きつけ、あっという間に時が経つというものでした。私の理想はそうした授業でもあるのです。

けれども、これが万人に通用するとは言い切れません。時代は変わりつつあります。「昔は話し手の話術と聴衆の想像力がうまくかみ合い、それで講演が成り立っていたのだ」と言うこともできます。その一方で、今の時代、きちんと聴き手に伝わるようにするためには、やはりビジュアル的なものも大事という主張も頷けます。どちらが正しいというものではないのです。時代とともに人々の価値観も、授業や講演に求めるものも変わるからです。

私は完全に「手書き世代&パワポ・LINE以前の世代」です。長々とした活字でも気になりません。けれどもLINEのような「一行に数文字」という表示を見慣れた世代に伝わるようにすることも考えねばならない時代にいます。こちらが一方的に「伝えました」と感じたとて、相手に伝わっていなければコミュニケーションは成立していないのです。それこそ私が漢文ないし文語体の文章を受け取ってもチンプンカンプンになるのと同じです。

日常生活であれ通訳現場であれ、大切なのはその時代・その世代・その状況に合った「伝わり方」を「伝える側」が努力することなのだと感じます。その試行錯誤をし続けながら歩むことなのでしょうね。

(2019年6月4日)

【今週の一冊】

「イラスト解剖図鑑 世界の遺跡と名建築」ジョン・ズコウスキー/ロビー・ポリー他、東京書籍、2018年

子どもの頃から私はイラストやお絵かきが不得手です。手先も器用ではありません。ゆえにサラサラッと絵を描ける人を見ると本当に感動してしまいます。今やスマートフォンで写真を撮ることが全盛期ですが、手描きの絵には魂が宿っているような感じがします。そうしたものに私は魅了されます。

今回ご紹介する一冊は、世界の建築や遺跡をイラストと写真で紹介しています。かなりの大型本です。取り上げられているのはフランク・ロイド・ライトの作品や、シドニーのオペラハウス、日本の中銀ビルなど多岐にわたります。写真だけでなく、断面図などもあり、様々な角度から楽しめます。

中でも私が見とれたのがベルリン・フィルハーモニーのホールです。オープンしたのは1963年。写真から見るに何となく60年代テイストが醸し出されています。このホールでのこけら落としはベートーベンの第9だったそうです。タクトを振ったのはカラヤンでした。今なおこのホールはベルリン・フィルが拠点としています。私の敬愛する指揮者マリス・ヤンソンスもここで客演をしてきたのだと思うと感慨深いものがあります。

本書のどのページをめくってみても、建築物や遺跡には建てた人の思いが込められていることを感じます。古代遺跡の場合、設計者の名前は知る由もないでしょう。一方、近代の建物であれば誰がデザインしたのかは記録されています。普段私たちは街中で目にする建物の設計者名まで知ることはあまりないかもしれません。だからこそ、どのような思いでその建造物を建てたのか、その心を知ることも建物を知る上で大切だと本書を通じて私は感じたのでした。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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