第394回 時代は変わりゆく
ニュースの仕事をしていると、時代というのは移り変わるのだとしみじみ思います。国を問わず、言語に関わらずです。社会が成熟するが故なのでしょう。
たとえば英語のpolitically correct words。昔であればchairmanやpoliceman、housewifeなどは、今ならchairperson、police officer、homemakerと言われます。日本語も同様で、父兄会は保護者会、看護婦は看護師などと表現されます。
言葉だけではありません。これは私が聞いた話なのですが、昔は通訳者もビジネスクラスやグリーン車に乗り、ホテルもエグゼクティブ・フロアだったそうです。それぐらい日本経済が強く、待遇も破格の時代でした。今では大企業のトップでさえエコノミークラスを使います。
教育現場も同様です。私が子どもの頃は体罰もありましたし、先生から強く叱責されることが少なくありませんでした。中学校の全校集会で拡声器越しに怒鳴られることもありましたね。ここに書くのは憚られるのですが、あえて記しますと「バカ・アホ・てめーら」的な言葉を男性・女性を問わず先生方が口にしていました。
一方、仕事はどうだったでしょうか?かつては「熱が出ていようが這ってでも出社すべし」という風潮がありました。私の大先輩である通訳者も若かりし頃の話として次のようなエピソードをして下さいました。いわく、重要な国際会議の日にお子さんが救急車で搬送されたものの、奥様は「夫の業務に差し障りがあるから」とあえて連絡されなかったのだそうです。「家のことは私が一人で対応するから、あなたは通訳を頑張って」ということでした。
この話を聞いて私が思い出したのは、歌舞伎俳優の五代目・中村勘九郎氏と父君である十七代目・中村勘三郎氏のエピソードです。
1988年のこと。勘三郎氏は腫瘍の悪化により、容体が急変していました。公演中の勘九郎氏は合間を縫って父親の見舞いに行きます。亡くなる直前でした。舞台に戻ろうと声をかけた勘九郎氏に対し、勘三郎氏は「うるせーな、バカヤロー」と言われたそうです。よって勘九郎氏は親の死に目に会えませんでした。勘九郎氏は生前の勘三郎氏から、「親の死に目に会えるような役者になっちゃいけない」と言われていたそうです。
当時、悲しみに耐えながらも芸の道に精進する勘九郎氏の姿は、多くの日本国民の心を揺さぶりました。おそらく芸の世界や武道の世界など、今なおこうした考えが残っているかもしれません。
けれども、ごく一般市民の場合はどうでしょうか?一概に日本と海外を比較することはできませんが、知り合いのイギリス人いわく、こうした「日本の美徳」には違和感を抱くとのことでした。最愛の家族であるのに最期に立ち会えないとなると、一生その後悔を引きずると言うのですね。
さらにこう言われました。「そもそも自分のピンチヒッターになれるような人材を育てておくことこそ大事なのではないか?」と。確かに以前私が携わったオペラの仕事では、understudyが常にいました。アンダースタディとは、俳優の不慮の事故などに備えてけいこ中からずっと待機している控えの俳優のことです。
通訳の世界はスポーツや芸術同様、「その業務の替えがきかない」職種と言えます。一旦請け負ったならば当日まで体調を整え、万全の準備をする必要があります。それらすべてが含まれての通訳料金だからです。
しかし時代は変わりつつあります。若い人たちの職業観も異なってきています。古い世代が若者に対し旧態依然とした価値観を押し付けてしまっては、せっかくの優秀な人材を失うことにつながりかねません。「這ってでも来い」「親の死に目に会えないのもこの仕事だ」などと頭ごなしに決めつけてしまうのは、もはや時代錯誤の考えとなりつつあるのです。
どのような業界であれ、有能な人材を育て、伸ばしていくことは、日本経済ひいては世界経済を元気にし続けるために必須です。だからこそ、年長者は年少者の考えを理解し、時代に即した方法に変えるべきでしょう。危機管理を常にしながら次世代を育てる必要があると私は強く思っています。
(2019年5月7日)
【今週の一冊】
「胎内都市:暗闇の世界にひろがる地下水道の迷宮」白汚零著、草思社、2018年
指導している大学の図書館が非常に使いやすく、気に入っています。週2回教えに出かけているのですが、必ず立ち寄ります。館内に入り、最初に向かうのは新刊コーナー。大学ならではの学術書が揃い、アカデミックな空気に浸れます。
専門書ばかりではありません。文庫・新書・単行本など、学生たちが興味を抱けるような本を取り揃えているのも特色です。書店を巡るのも私は好きなのですが、最近はいつでも借りて返せる手軽さが気に入っているため、もっぱら図書館です。
今回ご紹介するのは、新刊コーナーに置かれていた一冊。写真集です。テーマは「下水道」。でも表紙写真を見る限り、どこかの宮殿かミュージアムにも解釈できます。ただ、よくよく眺めてみると、確かに水が流れているのですよね。
著者の白汚零(しらおれい)氏は下水道などを専門に撮影する写真家です。一般の人であればまず立ち入れない空間・下水道を本書では取り上げています。道路の蓋の下に広がる多様な世界が本書にはおさめられています。
下水道のイメージとして、私は単に溝や管が広がるだけだと思い込んでいました。しかし本書のページをめくるごとに、壁や柱、形状や色も実に多様であることがわかります。このような美しい世界があったのだと気付かされます。
どの世界にも「美」は宿るのですよね。そのことを改めて感じた一冊でした。
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