第59回 良き映画から職業観を学ぶ
このところ私の中ではちょっとした映画ブームです。立て込んでいた仕事が一段落したのを機に、「ジョニー・イングリッシュ」を観たのが最初でした。これはコメディ「Mr.ビーン」でおなじみのローワン・アトキンソン主演の映画。007シリーズのパロディに似ている作品で、大いに笑えました。仕事三昧で緊張感が続いていたのですが、この映画のおかげで頭を切り替えることができました。
その次に見たのは「ブリューゲルの動く絵」。私は幼少期、オランダに暮らしていたのですが、ブリューゲルの作品に出てくるベルギーの暗い空はオランダ時代を髣髴させます。謎の多いブリューゲルの絵画を、より深く知ることができる映画でした。
そして先週このコラムでご紹介したのが「ピアノマニア」。次に観たのが原田知世主演「しあわせのパン」です。ほんわかしたストーリーでしたが、この作品からは次の3つのことを学びました。
まず「自分の好きなことは丁寧に行う」という点。映画では主人公の夫婦がカフェを営んでいるのですが、パンを焼いたりコーヒーを淹れたりするシーンが出てきます。そのどれもが心を込めて慈しみながら行っているのが分かるのです。翻って私の通訳現場はどうかと言えば、まだまだハラハラどきどき慌ただしく取り組むばかり。好きな仕事だからこそ、たとえば辞書を丁寧に引く、キーボードを穏やかに叩く、心を込めて声を発するなど、改善すべき点があると気づかされました。
2点目は「お客様のためを思う」ということ。「しあわせのパン」では「今、目の前のお客様は何を求めているのか」、「どうすればそれを提供できるか」がテーマになっています。自分のための通訳ではなく、相手が求めるものをどうしたら実現できるか、それを通訳者は考える必要があると私は思います。先日観た映画「ピアノマニア」の調律師シュテファン・クニュップファーさんはBBCのインタビューで”the absolute will to achieve something and to satisfy the customers”と表現していました。「自分」ではなく、中心はあくまでも「お客様」です。
3つ目は「美しさにこだわる」ということ。これは外見的な美しさのことではありません。自分の提供するサービスや商品における「美」を指します。丁寧に行えば出来上がりも心のこもったものになります。そしてそれが美しさにつながると私は思うのです。シュテファンさんは先のインタビューでこう述べています。
「僕は完璧な楽器を聴くのが大好きで、優れたピアニストがそれを演奏すればなおさらです。ただし、さほど秀でていない『ピアニスト』が美しいピアノを弾いた場合、ほとんど耐えられないのです。ピアノはその奏者の重苦しいタッチでうめき苦しんでいるのですから。」
「楽器、ピアノ」を「話者のスピーチ」に、また、「ピアニスト」を「通訳者」に置き換えてみると、見えてくるものがあります。つまり、どんなに優れたオリジナル・スピーカーの話であっても、通訳者がアウトプットの時点で台無しにしてしまっては、聴衆にメッセージは伝わらないのです。通訳者は訳語だけでなく、話し方、息継ぎ、声のトーンなど、あらゆる面から自らを向上させる必要があると私は思っています。
建築家の安藤忠雄さんは、常に無我夢中で仕事をすべきであると著書の中で述べています。欲や贅沢さについては、「もし自分がそういう気持ちになったのなら、そのときが引退をする時機」とも記しています。通訳者である私自身、誰のために通訳をするのか、常に念頭に置きながら続けていきたいと考えています。
映画「ピアノマニア」を出発点に、私の読書も「調律師」から「ピアニスト」へとシフトしている。今回購入した本は脳科学や身体運動学からピアニストについて解説したものである。よく「音楽に秀でている人は英語の上達も早い」と言われるが、そうした様々な説を丁寧に説明している。
音楽というと、才能のある人だけが成功すると思われがちだ。しかし才能以上に環境的な要因も無視できない。幼いころから良質の音楽を聴き続ければ、「その後の人生で音楽を深く楽しむための”一生の財産”となる」と著者は説く。なぜならばピッチやリズムを正確に把握する力が蓄えられるからである。
また、自らピアノを練習すればするほど、自分の演奏をたくさん聞くことになる。そうすることで「わずかな音色やハーモニーの違いが聴きとれるように」なる点も挙げている。これは英語も同様だ。ただ「聴くだけ」ではなく、自分で声に出し、手で書き写し、目で黙読するといった五感を使う作業を行うことで初めて力もつくのだと思う。
練習については、名教師パデレフスキの格言をここでご紹介したい。
「1日練習しないと自分が気づき、2日しないと批評家が気づき、3日しないと聴衆が気づく」
これは英語学習、通訳訓練においても心に留めておくべきことであろう。
著者の古屋氏はピアニストについて「作曲家の遺した音楽を現代の世の中に再現できる唯一の存在」と述べる。通訳者も話者の話を再現できる立場にある。クラシック音楽と通訳は一見かけ離れているように思えるが、多くの共通点があることに気づかされた一冊であった。
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