第58回 ピアノ調律師に通訳者の姿を見る
映画「ピアノマニア」を観てきました。これはドイツで2009年に作られたドキュメンタリー映画。テーマは「ピアノの調律師」で、実在するシュテファン・クニュップファーさんを中心に展開します。
観ようと思った理由は3つありました。ひとつは私が大学入学直前までピアノを習っていたこと。二つ目は、今は引退した巨匠ブレンデルが出ていること。そして最後に、調律師という仕事に興味を持ったからでした。ここ数年、日本のミニシアターで良質のドキュメンタリー作品が上演されているのも動機の一つです。
本編を通じて作品が訴えていたのは、調律師という仕事がいかに緻密であり、裏方であり、ピアニストとの共同作業であるかという点でした。私はスクリーンを観ながら、調律師と通訳者の姿をいつしか重ね合わせていました。
調律師はただ単に音を合わせてピアノの響きを良くすることだけが仕事ではありません。ピアニストの好みや意向を汲み取り、それを反映させる必要があります。しかも準備時間はホールの都合上、限られています。ピアニストの信頼を得ることも大切です。そうした中、調律師のシュテファンさんはブレンデルを始め、ラン・ランやジュリアス・ドレイクのコンサートで調律を担当します。一方、フランス人ピアニスト、ピエール=ロラン・エマールのレコーディングにも立ち会います。録音は半永久的に残りますので、調律師にとってプレッシャーの大きい仕事です。
私にとって印象的だったのは、こうした厳しい仕事環境でも冷静かつにこやかに仕事を進めるシュテファンさんの姿でした。ピアノの調律をこよなく愛する、そんなオーラがにじみ出ています。でしゃばらず、落ち着いていて、品があり、ユーモアも持ち合わせ、決して「ノー」と言わない。私自身、通訳者としてこうありたいと思わせるものがありました。
レコーディングのシーンで、音楽プロデューサーがシュテファンさんに、仕事が過酷なのではと尋ねる部分があります。その時のシュテファンさんの答えは「これは研究なんだ」というものでした。ここまでやったから完璧というわけではなく、ひとつひとつの仕事がどれも未知への挑戦なのです。通訳者の世界における「ことば」へのあくなき探究に通じると思いました。
「たとえばCDを聞いていても、美しくない音には耐えられない」とも述べるシュテファンさん。私は日ごろ、ラジオニュースを聴く際、日本語アクセントが間違っていたり、ニュース原稿がわかりにくかったりというアナウンスを聞くと違和感を覚えます。「美しい日本語へのこだわり」は調律師が美しい音を求めるものと同じなのかもしれません。
そう考えると、どの職業にも共通点はあるのでしょう。その仕事を心から愛し、人のために尽くし、慢心せずにさらに高みを目指す。そのようなことをこの作品から感じました。
「ピアノマニア」を観た直後に思ったのは、「調律師についてもっと知りたい」ということ。さっそくその足で書店へ向かい、購入したのが本書である。
著者の高木氏はスタインウェイの調律師を経て現在はタカギクラヴィア株式会社を経営している。氏は「ピアニストだけが自分の楽器を持ち歩けない」ことを憂慮し、ホール備え付けのピアノではなく、自社のコンサートピアノを持ち込むというサービスを始めたのである。
いくつか印象的な個所があった。たとえば高木氏が修行でスタインウェイ本社へ行ったときのこと。それまでは「調律イコール数字的に音を調律する」と思いこんでいた。しかし本社の職人に「頼れるのは自分の感覚だけ」と言われ、開眼する。これは通訳も同じだ。一字一句もらさずすべて辞書的に訳出することだけが秀でた通訳ではない。通訳者の言語感覚も問われるのだ。
ピアノコンサートは、厳密にはピアニストが「目の前のピアノで最大限の努力を払って弾いた」と言った方が正しいかもしれない。コンサートが不評であれば、場合によっては演奏家がピアノのせいにするかもしれない。国際交渉の場でうまくメッセージが伝わらず、通訳者のせいにされるケースと似ている。
調律師には免許がない。病気欠勤も許されない。「自分の技術を売るのが自分の使命」というくだりも通訳者と同じである。だからこそ「自分の技術向上のために、寝る間も惜しんで、真剣にピアノと格闘するべき」という高木氏の主張に同感する。
通訳同様、調律にも理論がたくさんあり、そうした本も出ている。しかし「経験に勝るものはない」と断言する高木氏。良い通訳をするために理論は「助け」になるが、理論「だけ」で良い通訳はできないと私は思っている。
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