第371回 会えるうちに会っておく
1994年に初めてその美しいタクトさばきを観て以来、大ファンとなったのが指揮者のマリス・ヤンソンス氏です。当時私はロンドン大学に留学しており、連日の課題と修士論文の作成で行き詰っていました。せめてもの息抜きにと学生料金で入り浸っていたのが、Royal Festival Hallというコンサートホールです。当時、ヤンソンス氏はロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の客員指揮者を務めていました。
ヤンソンスの指揮は動きに無駄がなく、指先に至るまでとにかく美しいの一言に尽きました。それまで私は何回かクラシックコンサートに足を運んだ経験はあったのですが、指揮者そのものに魅了されるということは一度もなかったのです。ヤンソンスが指揮をすると、どの楽団員も輝いて見え、一つ一つの音が動いている、そんな印象を私は受けました。
以来、20年以上、追っかけのごとく氏のコンサートには必ず出かけてきました。留学終了時の94年夏にはザルツブルクの音楽祭まで追いかけましたし、来日公演は毎年欠かさず出かけています。数年前の来日の折には、日帰りで京都公演にも行きました。それぐらい大ファンです。
私が強烈に惹かれるのは、ヤンソンスの指揮の美しさだけではありません。氏の音楽に対する真摯な気持ちとそのお人柄から私は多くのことを学ばされ、自分自身の仕事観や生き方そのものを考えるきっかけを得ました。ヤンソンスに関する記事を片端から読んでもみました。いずれの記事にも氏が楽団員たちに尊敬され、敬愛され、その人間性を称える声が出ているのです。今、私がこうして仕事や日々の生活を送るうえで、大きな影響を与えているのもマエストロと言って過言ではありません。
ヤンソンス氏は数年前までオランダのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団とドイツのバイエルン放送交響楽団の2楽団を率いていたため、来日は毎年ありました。しかし、今はバイエルンに専念しているため、隔年での来日です。前回の日本公演は2年前。そして今年11月、待ちに待った来日が控えていました。
けれども、主催者側から指揮者変更のお知らせが先日届いたのです。ヤンソンスがウィルス性の病気にかかったため、大事をとってアジアツアーには同行せず、指揮者は交代するというものでした。2年間ずっと待ち望んでいただけに私としても大変残念ではあります。けれども律儀なマエストロのことですので、きっと次回は元気な姿で来日してくださると私は信じています。
今回の指揮者変更のお知らせを受け取り、もう一つ感じたことがあります。
数年前の京都公演を前に私は「CDでもヤンソンスは聴けるのだし、わざわざ京都まで追いかけなくてもよいかなあ」と躊躇したことがありました。けれどもあの時思い切って出かけて聴きに行って本当に良かったと思うのです。「行けるうちに行くこと」「会える人には会えるうちに会っておくこと」がいかに大切かをしみじみと感じています。
・・・あ、余談ですが、来たる来日公演でピンチヒッターを務めるのは、あのズビン・メータ氏。メータ氏も偉大な指揮者です。
実は私は小学校4年生の時、人生初のオペラを両親と共にロンドンのコベントガーデンで観ました。シュトラウスの「こうもり」です。その指揮者がメータでした。それから数十年後、通訳者として偶然にもマエストロの通訳をする機会に恵まれたのです。実家の父が「せっかくだから、メータ氏に当時のコンサートプログラムをお見せしたら?」と持たせてくれました。そこで通訳業務終了後にそっとプログラムをご覧いただいたところ、メータ氏はそれはそれは喜んでくださったのでした。普段私は業務中にサインなどは求めないのですが、その時ばかりはメータ氏ご自身が、わざわざプログラムにサインしてくださいました。
今でもあの時の出来事は、私の心の支えとなっています。そのメータ氏がタクトを振る今回のバイエルン放送交響楽団日本公演。11月下旬から始まります。今から楽しみです。
(2018年11月6日)
本書に出会ったのは偶然でした。たまたま立ち寄った書店で別の本を購入した際、レジのところに岩波書店の新刊案内冊子が置いてあったのです。パラパラめくっていたところ、この本の紹介が出ていました。
実は本書を読むまで私は森川智之さんのお名前は存じ上げていませんでした。私自身、ボイスオーバーの仕事をBBC時代には経験していましたが、さほど声優業界に詳しくはなかったのです。何分、日本はアニメ大国。声優さんもたくさん活躍しています。せいぜい知っているとしても「ドラえもん」の声優さんぐらいでした(もっともこちらも昭和の頃のドラえもんの話です)。
著者の森川さんは、映画「ズートピア」でキツネのニック役を務めたのを始め、トム・クルーズの吹替えでも必ず登場するなど、幅広くご活躍中です。声優業だけでなく、ナレーションや歌手などの仕事もなさっています。出演作品もたくさんあり、巻末にはそのリストが掲載されているので、ファン必見と言えるでしょう。
私が本書から感銘を受けたのは、森川さんが自身の職業を「職人」ととらえておられることでした。私自身、通訳の仕事というのは言語変換的頭脳労働というよりも、「職人」に限りなく近いと思っているからです。日々の研鑽を重ね、より聴きやすい通訳をしてお客様に喜んでいただき、お役に立てるよう尽力すること。その在り方がまさに職人だと思うのです。たとえ機械通訳・翻訳機が誕生したとしても、生身の通訳者は必要とされると私は信じています。いつまでも社会に貢献できるようにするためにも、自らの仕事に真摯に取り組みたいと思うのですね。
本書には声優としての心構えの他、どのような勉強をすれば良いかが綴られています。森川氏いわく、本当にアニメ声優になりたいならアニメばかり観ているのではなく、むしろ幅広い経験をしたり読書に励んだりしてほしいとのこと。これは通訳業も同様です。通訳者になりたいがために英語そのもの「だけ」を勉強の目的にするには、あまりにも時間がもったいないと私は考えます。見聞を広げ、知識を幅広く吸収し、どのような話題に遭遇しても訳すことができる。そんな通訳者になりたいと私は思っています。
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