INTERPRETATION

第46回 「楽しむ」よりも「楽しめるか」

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

私が初めて会社に就職したころ、日本はバブル真っ盛りでした。私は念願の航空会社に入ったのですが、配属先は私が期待とは異なるものでした。それでも大好きな会社に入ったので、入社当初は毎日が新鮮でした。できるだけ早く仕事を覚えようと、先輩方の指導を受けながら日々努力したのを今でも懐かしく思い出します。

当時私が希望していたのは、機内誌を作る広報部でした。もともと私は文章を書くのが好きで、それまでもずいぶんいろいろなところに投書したり、コンテストに応募したりということをしてきました。文字が好き、書くことが好きというのを何としても機内誌の仕事で生かしたかったのです。このため、別部署ではありましたが、広報部の上司に古い機内誌をいただいては隅々まで読んでいました。学生時代に校正のアルバイトをしたこともあったので、その上司に意見を求められた際には、誤字脱字やレイアウトなどについてもコメントしました。大学卒業後のわずか20代前半の意見にも真摯に耳を傾けてくれた上司には、今も感謝しています。

少しずつ会社に慣れてきたころ、折に触れて広報部の仕事がしたいと直属の上司などにも相談するようになりました。ちょうど社内報が発足したこともあり、そのメンバーにも加わり、足場固めも始めました。自分としてはいつか近いうちに広報の仕事に行けるのではないか。そんな希望を抱きながら仕事を続けたのです。

ところがいつになってもチャンスは巡ってきません。今でこそ私は「のんびり構える」ことを意識するようにしていますが、当時は若かったこともあり、とにかく「早く、早く」と焦っていました。「このままではいつまでたっても機内誌の仕事はできない」と思い始めると、目の前の本業が色あせて見えるようになったのです。そのうち日々の仕事が「こなすだけ」になってしまい、毎日ぼんやりと電車に揺られながら出社するようになりました。

結局私は1年半でその会社を辞めて転職します。機内誌の夢がかないそうもないとなって「留学」という別の目標を定めたからです。留学になるべく近い業種に転職しようということで、ある大学の日本事務所へと仕事を変えました。

今こうして自分が放送通訳業や執筆、大学での指導などをする中、かつての自分を振り返ってみて言えることが一つあります。それは目の前の仕事を「楽しむ」ということと「楽しめるか」ということの違いです。「楽しむ」というのはあくまでも受動的です。「楽しいものを提供してもらえるから自分は楽しい」という、ややもすると他力本願的な要素があります。

一方、「楽しめる」というのは「自分から積極的に取り組み、楽しんでいく」というものです。これには楽しむための自発的な工夫が必要であり、忍耐力も要します。航空会社勤務のころの私は、「やりたい仕事をやらせてもらって初めて自分は楽しい」という状態でした。目の前の本来の仕事には自立的勤務態度で臨んでいなかったのです。

私にはひいきにしているお店が何軒かあります。コーヒー豆を買うお店、来客時にお出しするケーキを購入する店舗、車検をお願いする工場などなどです。なぜ私がリピーターになっているか。それはひとえにそこの従業員さんたちがいずれも「楽しみながら仕事をしているから」なのです。やらされ感でサービスをしているのではありません。一見単調そうに思える業務にも溌剌と積極的に取り組み、それを私たち消費者に還元してくれているのです。

我が家のマンションには、毎朝お掃除のスタッフさんが雨の日も風の日も仕事をしてくださっています。その女性スタッフさんは実に楽しそうにキビキビと仕事にあたっているのです。早朝ウォーキングに私が出かける際、あいさつをするとにこやかな返事が返ってきます。仕事を楽しめるか、そしてそれを社会に還元できるか。このスタッフさんと言葉を交わすたびに私は襟を正す思いでいます。

(2011年11月14日)

【今週の一冊】

「私は虫である」熊田千佳慕著、求龍堂、2010年

たまたま近所の美術館のショップで見つけた一冊。表紙にはタンポポと虫の絵が描かれている。あいにく虫オンチ(?)の私には、本書に紹介されているカラー図の虫もよくはわからない。ただ、本文中に紹介されている熊田氏の一言一言が実に重みがある。

熊田氏は98歳になるまで現役画家として活躍した。貧困をもいとわず、童画家を生涯貫き、70歳にして初めて「ファーブル昆虫記」の作品がボローニャ国際絵本原画展に入選した。まさに遅咲きの人生である。

印象的な言葉がいくつもあった。「ゆとりは作るべきものでなく、自ずからできるもの」「楽しい時に笑って笑って、幸せをたくさん貯めておきましょう」「過ぎ去ったことは置いておかないと、先へ進めない」などなどだ。巻末に寄稿している俳優・布川敏和さんの一文も読みごたえがあった。ふっくんは、実は虫博士だったのだ。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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