第33回 鬼の暴れよう
私が学生時代に偶然手にし、大きな影響を受けた本の著者である神谷美恵子先生。結核という当時は不治の病と言われていた大病から復帰し、自分の使命感は何かを常に考え、紆余曲折を経て長年の夢であった精神医学者となりました。そしてハンセン病患者のために尽力し、わずか60歳代で生涯を終えています。
神谷先生の本は私に、「自分のやるべきことは何か」「社会の一員として自分は何ができるか」ということを始め、家庭を持ちつつも仕事を続けることや書くことの大切さを気付かせてくれました。私自身、学生時代から社会人にかけて夢中になって読み、通訳者としてデビューした際にも「自己満足の為ではなく、人にとって役立つ通訳者になりたい」と思わせてくれたのです。若かりし頃に素晴らしい書物に出会えたのは本当に幸運だったと思っています。
その後しばらく再読することからご無沙汰していたのですが、先日、角川文庫で先生の日記が再編集されて出ていたのを知り、久しぶりに手に取りました。
20代から亡くなるまでの日記が時系列に並んでいます。25歳の時に先生はすでにこのように記していました。
「軋轢のある、神経の緊張した、なやみの多い世界でないとだらしがなくなる。」
「今はもはや自分のために苦しんでいるときでも喜んでいる時でもない。」
「自分の問題は神様との間のみで決めるべきなのだ。」
先生はクリスチャンの家庭に生まれ、キリスト教が身近にありました。このため、日記には宗教に関する記述がたくさん出てきます。先生は聖書の内容もすべて頭の中に入っており、悩める時はそうした観点から自らを客観的に見つめていましたが、その一方で、宗教から自由になり、「自分の頭」で考えたいという思いも強かったようです。
上記の3つの文章を読むと、「自分は自分のためではなく、人のためにいかに尽くせるか」「自分の悩みを他人に解決してもらうのではなく、自ら克服する」という強い決意が現れます。と同時に、安定した場所でのんびり過ごすことは自分を鍛えることにならないとして、厳しい環境で必死に生きることを決意しているのもわかります。
先生の日記にはときどき「鬼」という言葉が出てきます。これは自分がやらねばならないこと、具体的には医学に関する研究や勉強を指しています。先生は二人の息子の子育てや家事、雑事などもきちんとこなしたいという思いが強く、ゆえにそうした自らの研究欲である「鬼」をどうなだめるかで非常に苦しんでいました。そのような時期の日記には「鬼の暴れようがひどい」といった記述が出てきます。
数年ぶりに先生の日記を読み直して私が思ったのは、こうした「鬼」はおそらく誰の心にも存在するのではということでした。「体調も絶好調、仕事もスムーズ、人間関係も順調」というときにはそうそう出てこないでしょう。けれども人間である以上、そんな順風満帆な状況というのはめったにありません。他人とつい比べて落ち込んでしまったり、仕事上、うまくいかないときに「自分のやっていることは人の役に立っていないのでは」と自己評価が低くなってしまったりすると思います。そんなときは誰の心にも「鬼」が出てきて大暴れしているのではないでしょうか。
神谷先生はそのようなとき、「風よ吹け、吹け」と記して心を落ち着かせようとしています。「森のイスキア」を主宰する佐藤初女先生も「ありのままを受け入れる」と述べています。苦しい状況のとき、必要以上に抵抗してジタバタするよりも、とにかく流れに身を任せて嵐が去るのを待つ。それが大切なのだと思います。私自身、長い人生ですのでそうした気持ちを失わないでいたいと思っています。
「アフリカンドレス」 アフリカ理解プロジェクト編、明石書店 2004年
先日、埼玉県立近代美術館で「彫刻家エル・アナツイのアフリカ」という展示を見た。廃材などを使って大きな作品を作るエル・アナツイは1944年生まれ。ガーナ出身で、その発想の素晴らしさにより高い評価を得ている。今回ご紹介する書籍はミュージアムショップで売られていたアフリカ関連書籍の一冊である。
日ごろ放送通訳現場でアフリカ関連の話題はたくさん出てくるが、たいていは内戦や飢餓など、深刻な話題が多い。しかし今回見た展示品を始め、この書籍に紹介されているアフリカはそうしたニュースとは少し異なる。人々の日常生活、文化や慣習などがよくわかる。
中でも興味深かったのは「カンガ」と言われるアフリカ布。100パーセント綿でできており、サイズは160X110センチの長方形。巻き方を工夫することでスカーフやドレス、エプロンなど様々な用途で使える一枚だ。また、デザインにも特徴があり、ことわざや教訓などのメッセージが記されているのも興味深い。
本書はドレスだけでなく、レシピやアクセサリーなどの作り方も出ている。アフリカ文化を身近に感じられる一冊。
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