INTERPRETATION

第14回 歴史を見る視点はひとつではありません

原不二子

Training Global Communicators

 来年は、米国ワシントンのポトマック湖畔に桜が贈られて100年を迎える記念の年になります。ワシントンの桜と言えば、私は幼少の頃から、当時、東京市長をつとめていた母方の祖父、尾崎行雄が寄贈したと聞かされて来ました。ところが、今年になって、新しい情報が寄せられました。タカジアスターゼとアドレナリンの発明で名高い、富山県出身の高峰譲吉博士が桜の贈り主だということでした。公開された高峰譲吉の映画を見た人たちは、「尾崎の名前が一回も出てこなかったけど、どうなっているの?」という反応。私は、尾崎行雄の咢堂全集を見直しましたが、高峰譲吉の名はありませんでした。

 1890年の第1回総選挙で選出されてから1953年まで25回連続当選を果たした尾崎行雄(1858~1954)は、当時、三重県選出の衆議院議員であり、東京市長(現在の都知事)として2期(1903~1912)目を務めていたその間、日露戦争(1904~1905)が勃発。ローズベルト米大統領の斡旋により、かろうじて敗戦の謗りを逃れましたが、戦況の実情を知らされていなかった国民は、ロシアから賠償がとれなかったことに激怒し、交番や日比谷公園の焼き打ち事件を起こしました。日露戦争に際し、アメリカは戦争債を購入し、ロシア帝国に挑む極東の島国日本を支援しましたが、桂太郎率いる当時の日本政府は、米国に礼を言う立場にありません。そこで、尾崎は、「世話になったらお礼を言うのは礼儀。政府ができないなら、東京市民の名において東京市がお礼を言おう」と決意。何か良い方法はないかと考えていた矢先でした。タフト大統領夫人がポトマックの沼地に日本の桜を植えたいと所望しておられることを知った尾崎は、東京市議会の決議を受け、桜の木を寄贈することになったのです。

 現在も横浜の外人墓地に眠る親日のシドモア女史(紀行作家)経由でタフト夫人の要望を知ることとなった高峰譲吉博士は、外交ルートを通して尾崎にそのことを伝え、その経費を支払った方なのです。ポトマックの桜は、日米関係を大事にしようと願う人たちの想いが結集し、贈られることになったのです。

 私が聖心インターナショナル・スクールに通っていた頃、クラスにはドイツ人、フランス人、オランダ人、中国人、韓国人など、それぞれ異なるバックグランドのクラスメートが多く、歴史の時間はいつも激論が繰り広げられたのを思い出します。歴史の視点は決してひとつではないと思うのです。

原 不二子

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原不二子

上智大学外国語学部国際関係史研究科博士課程修了。 祖父は「憲政の父」と呼ばれた尾崎行雄、母は「難民を助ける会」会長の相馬雪香。母の薫陶により幼い頃からバイリンガルで育ち、21歳の時MRAスイス大会で同時通訳デビュー。G7サミット、アフガニスタン復興会議、世界水フォーラムなど数多くの国際会議を担当。AIIC(国際会議通訳者協会)認定通訳者で、スイスで開催される世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)、ILO総会の通訳を務め、最近では、名古屋における生物多様性(COP/MOP)会議、APEC女性リーダー会議、アジア太平洋諸国参謀総長会議、ユニバーサル・デザイン(IAUD)会議、野村生涯教育センター国際フォーラム等の通訳を務めている。

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