第257回 梅の花を見たときに思い出す詩
梅の花。それは春が近づいている証拠。
風が吹いて降りしきる梅の花を見ていると、俳句の一つでも作れそうな気がしてきます。
そうやって、梅の花を見ていたら、俳句のような梅の詩があったことを思い出しました。
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Outside a Gate
Amy Lowell
On the floor of the empty palanquin
The plum petals constantly increase.
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門の外
エイミー・ロウエル
誰も乗っていない駕籠の床
降りしきる梅の花びら
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こ、こ、これはもはや俳句ですね!
たったの2行。しかも、読者の創造に任せるような余白の多さ!
なおかつ、映画のワンシーンを見ているかのような、映像的な言葉の流れ!
Outside a Gate
門の外
まず最初に、舞台設定がなされます。このタイトルだけで、頭の中にシーンが思い浮かびますよね。
どんな門であるかとか、どんな建物の門であるとか、どんな道が門の前にあるのかは、人によって異なるでしょう。ある人にとってはお城の門の前かもしれないし、ある人にとっては屋敷の門の前かもしれない。しかし、門と建物と道というセットは、自然とイメージできてしまうものです。
On the floor of the empty palanquin
誰も乗っていない駕籠の床
次に、駕籠の床!
駕籠全体を映すのではなく、その空っぽの駕籠の中に一気にクローズアップします。広く全体を映す門の外のショットから、いきなり駕籠の中という小さな空間のショットに切り替わることで、主題に一気にフォーカスされます。
駕籠には誰も乗っておらず空っぽであるということなので、色々と想像できる余地があります。春のやわらかな日差しとそれが作る影が駕籠の床に落ちていて、何ならやわらかい風が吹いているということまで、イメージしてしまいますよね。駕籠には、どんな人が乗っていたのか、あるいは乗ることになっているのか、どこから来てどこに行くのか。様々なことを見る者や読む者の想像に任せることになります。
映画などの人物の会話場面で、関係のないモノを映すショットに不意に切り替わることがよくあります。例えば、父と娘の会話の場面で、いきなり窓辺の花瓶を映すショットに切り替わり、また親子のショットに戻ったりするような場合です。
二人の人物をただ映していると、それはただの説明になってしまいます。しかし、そこで写し取りたいのは、二人の間に流れる心の動き。
いきなりモノだけのショットに切り替わったとして、写真のように静止しているかのようなショットだとしても、そこには時間が流れています。例えば、揺れる影や風が吹く様子が描かれることで、確かに時間が流れているということが伝わり、その時間に人物の心や頭の中で考えや思いが駆け巡っていることを感じ取れるのです。
空っぽの駕籠だけが描かれていたとしても、そのショットの前後の時間の流れを感じ取ることができるのです。
The plum petals constantly increase.
降りしきる梅の花びら
最後は、ドラマチックです。
ぽつんと駕籠があって、中は空っぽで、というところから、その駕籠の床に降りしきる梅の花びら!
広い門の外の空間から、小さな駕籠の中へ。空っぽという無から、降りしきる花びらという横溢へ。まさに、何もない寒い冬から、光と香りに溢れた春への移り変わりそのものですよね。
作者エイミー・ロウエルは、こうした俳句的な詩を多く残しています。俳句の性質を相当理解していることが分かりますよね。たった2行だけで、そこに描かれているシーンの外側の空間や、その前後の時間の流れさえも感じさせる。すごい英語の詩があるものだと、驚嘆します。
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今回の訳のポイント
わずか2行の詩の訳のポイント、それは冒頭の On です。
On the floor of the empty palanquin
誰も乗っていない駕籠の床
いや、っていうか、On 「~の上に」という言葉が訳されていないじゃないか!という、ご指摘が聞こえてきそうです。
そうなんです!でも、読み比べてみてください。On 「に」が入っている場合とそうでない場合を。
「誰も乗っていない駕籠の床に 降りしきる梅の花びら」と「誰も乗っていない駕籠の床 降りしきる梅の花びら」
どうですか。このどちらが、俳句的な想像の余地を感じられるかを検討してみたんです。
「に」があると、単なる状況説明に聞こえませんか。逆に、「に」を入れないことによって、映画のカットが切り替わるかのようなドラマチックさを感じながら、詩が持つ余韻や余白を多く感じられませんか。
少ない言葉で豊かなイメージを喚起させる詩だからこそ、説明的な言葉を省いていく。と言っても、省ける言葉はすでにほとんどない。
これこそがイメージの詩の神髄であると、梅の花を見るたびに考えてしまうんです。