第256回 がんばれないときに思い出す詩
人生には、春の時代も冬の時代もあります。
冬のように辛く苦しく、心も身体も疲れて動けなくて、がんばりたくてもがんばれないときがあります。
凍えそうな冬から、目覚めの春へ。そのはざまで、がんばれないときに思い出す詩があります。
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O thou whose face hath felt the Winter’s wind
John Keats
O thou whose face hath felt the Winter’s wind,
Whose eye has seen the snow-clouds hung in mist
And the black elm tops ‘mong the freezing stars,
To thee the spring will be a harvest-time.
O thou, whose only book has been the light
Of supreme darkness which thou feddest on
Night after night when Phoebus was away,
To thee the Spring shall be a triple morn.
O fret not after knowledge- I have none,
And yet my song comes native with the warmth.
O fret not after knowledge- I have none,
And yet the Evening listens. He who saddens
At thought of idleness cannot be idle,
And he’s awake who thinks himself asleep.
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冬の風を顔に受ける君よ
ジョン・キーツ
冬の風を顔に受ける君よ
霧に垂れこめる雪雲を目に映す君よ
凍てつく星間に黒い楡の梢を目に映す君よ
そんな君に春は収穫の時となるだろう
君の唯一の書物は
暗闇にある光
陽の神が去った夜毎 君はそれを頼りとした
春は君にとって三度もの朝となるだろう
あくせくと知ろうとしないで 僕も何も知らないよ
でも僕の歌は 春の暖かさに自ずから生まれるのさ
あくせくと知ろうとしないで 僕も何も知らないよ
でも夕べは耳を傾けてくれるさ
何もできないって悲しむ人は何もできない人じゃないよ
動けないって思う人はもう目覚めている人なんだよ
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暗く寒い冬から、明るく暖かい春へ。人生の冬から、希望の春へ。これは、人生の冬を過ごす人にとっては、涙なしに読めないですね。
蝋梅園が近所にあって、心と身体が疲れたある日にふらっと立ち寄ったら、蝋梅の香しさに元気がもりもり湧いてきたことがあります。
寒い冬と暖かな春の間で、香りを解き放つ蝋梅。そのときに感じた気持ちが、この詩には見事に描かれていると思うのです。
「冬の風」「雪雲」「凍てつく星間」
こうしたキーワードとともに、詩の前半は冬を描いています。
心も身体も凍えてしまって動けなくなってしまうときが、人生にはあって、自分の外側にある様々なことが冬の風となって、冷たく頬に打ちつけてくるように感じられます。
To thee the spring will be a harvest-time.
O thou, whose only book has been the light
Of supreme darkness which thou feddest on
Night after night when Phoebus was away,
そんな君に春は収穫の時となるだろう
君の唯一の書物は
暗闇にある光
陽の神が去った夜毎 君はそれを頼りとした
苦しんだ先にはきっと春が待っていて、苦労が実を結び収穫となる。
最高のメタファーじゃないですか!冬のような辛い時期があったとしても、いつか苦労は春のように報われるのだという言葉に勇気づけられます。
苦しいときって、「暗闇にある光」のように、冬のさなかに春の温もりを信じるように、日々を生き抜くんですよね。
And yet the Evening listens. He who saddens
At thought of idleness cannot be idle,
And he’s awake who thinks himself asleep.
でも夕べは耳を傾けてくれるさ
何もできないって悲しむ人は何もできない人じゃないよ
動けないって思う人はもう目覚めている人なんだよ
最後の2行は人類史上最強の励ましの言葉ではないでしょうか。
自分の外側にある様々な要因や事情によって苦しみ振り回され、なんとか解決したいと気持ちは急くけれど、その重さに押しつぶされそうで、心も身体も動けなくなってしまう。そんな無力感に苛まれる。
しかし!
何とかしたいのにできない、何とかしてあげたいのにできない、という悲しみを感じる人なのだから、何もできない人では決してないのだと!
心も身体も疲弊してしまって動けなくて、外から見たら、何もしていない、眠っているも同然にしか見えなかったとしても、何とかしたいという気持ちがあるのだから、決して眠っている人ではないのだと!
外面的には何もできていなくて変化もないように見えるかもしれないけれど、内面的には感じる心と未来への意志が脈打っている。冬に裸で枯れて突っ立ているだけに見える木々だって、実はその中で春の芽吹きを迎えようとしているのです。
人生の冬を過ごしている人にこの言葉が届き、暖かな春を信じられることを切に願います!
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今回の訳のポイント
冬から春へと移り変わる季節と同じように、人間も辛く苦しく何もできないように感じる冬であっても、春の目覚めはその中に息づいているのだ。そう高らかに歌う詩。胸に響きますねえ。
この詩の最も大事な箇所が、訳す上でも意味を理解する上でも、とても難しいです。
O fret not after knowledge- I have none,
あくせくと知ろうとしないで 僕も何も知らないよ
まず、after は「追い求めて」という意味なのですが、「知識を求めてあくせくするな」としても、大事なことは伝わりません。
名詞は動詞的に訳すことで、言葉の輪郭が見えてきて、意味が明確になります。ここでは、knowledge という名詞を、「知る」という動詞的に訳すと、詩のメッセージが分かりやすくなります。
つまり、「知識を集めようとするな」ということでなく、「あれこれと事情や理由や見通しを知ろうとしなくていいよ」というメッセージです。
I have none というのも「私も何も知識をもっていない」という知識の量を言っているのでありません。「あれこれと事情や見通しを知ろうとしなくていい。だって自分もそんなことは分からないから」ということを言っています。さらに、次に詩人らしいひと言を付け加えて、ダメ押ししています。
And yet my song comes native with the warmth.
でも僕の歌は 春の暖かさに自ずから生まれるのさ
これは、かっこよすぎる!「歌も同じように、あれこれと考えずに、自ずと生まれるものだから」という言葉に、詩人らしさが炸裂していますよね。
詩を紙にせっせと書いていなければ、外からは詩人に見えないかもしれません。でも、日々感じる心があって、外から見たら眠っているだけの冬の木と同じように、芽吹きに備えている。
だから、「あれこれと事情や理由や見通しを考えすぎずに、「何もできない」とか「動けない」と思う心のままでもよくて、というのも、機が熟せば自ずから芽吹くはずだからだと。
ジョン・キーツは、25年という短い生涯に残した流麗かつ格調高い詩によって、堅い言葉で訳されることが多いです。しかし、友人宛ての手紙に書きつけた詩も少なくなく、この詩のように、今を生きる私たちの心に真っすぐに届く言葉を残しているんです。
もっと深い分析や解説もできるのですが、最後の2行が心に響きすぎて涙が止まらないので、ここまでにします!