第158回 新聞を読んでいるときに思い出す詩
新聞やネットにはニュースが溢れています。
一方で、新聞も読まないし、テレビも見ないという人も増えています。
そんなことを考えていたら、「新聞なんて」という100年以上前の詩があったなと思い出しました。
どんな詩か読んでみましょう。
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No Newspapers
Mary Elizabeth Coleridge
Where , to me, is the loss
— Of the scenes they saw — of the sounds they heard;
A butterfly flits across,
— Or a bird;
The moss is growing on the wall,
— I heard the leaf of the poppy fall.
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新聞なんて
メアリー・エリザベス・コールリッジ
わたしが逃したもの
みんなが見た景色 みんなが聞いた音
蝶が舞ったり
鳥が羽ばたいたり
苔が壁に生えたり
ポピーの葉が落ちたり
わたしは聞いたよ
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「新聞なんて」というタイトルなので、社会情勢について論じたりするのかと思いきや、歌っている対象は「蝶」「鳥」「苔」「葉」など自然の事物。一体どういうことなのでしょう。
Where , to me, is the loss
— Of the scenes they saw — of the sounds they heard;
わたしが逃したもの
みんなが見た景色 みんなが聞いた音
世の中では、日々様々なことが起きていて、気づかないうちに、多くのニュースを見逃してしまいます。
他の誰もが知っている出来事や事件やその詳細を、うっかりすると知らなかったということもあります。
新聞などで得られるニュースというのは、多くの人の間で共有される情報ですが、人と会ったときに共通の話題をもつために新聞を読むという人もいるかもしれません。
しかし、詩人は、そんな常識の遥か斜め上の視点で、世の中を見ています。
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「蝶」「鳥」「苔」「葉」
こうしたキーワードは、政治や社会情勢、事件や事故、スポーツの試合結果といった新聞で目にする情報とは、大きくかけ離れています。
世の中の喧騒から距離を置いて、身の回りのすぐ近くで起こる変化に目を向けて、「新聞には書かれていないけれど、こんなこともあったよ!」と報告しているかのようです。
考えてみると、新聞の記事もテレビのニュースも、報道しようと誰かによって選ばれた情報であり、それが世の中のすべてではありません。
今日も、世界のどこかの難民キャンプで人が飢えに苦しんでいたり、戦場で人が命を落としたりしていますが、それらのすべてがお茶の間にニュースとして届けられるわけではありません。
蝶や鳥が羽ばたいたり、葉が落ちたりすることのように、世界の片隅で起きている様々なことが、人々にはニュースとして届けらないままになっている。
この詩を読むと、そんなことを考えてしまいます。
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今回の訳のポイント
世間では話題になっているのに、自分はそれについていけていなかった。そんな情景で、この詩は始まっています。
Where , to me, is the loss
— Of the scenes they saw — of the sounds they heard;
わたしが逃したもの
みんなが見た景色 みんなが聞いた音
この箇所の they というのは、世の中一般の人たち。日本語であれば「みんな」となりますよね。「ゲーム買ってよ。みんな持ってるから~!」と小学生の子どもが言うときの「みんな」の感覚ですね。
詩の後半では、「蝶」「鳥」「苔」「葉」を畳みかけながら、そっと主張しているのがかっこいいですよね。
世間が追いかけているニュースが世の中の全てではないのだと。
90年代のとあるJポップの歌詞で「ニュースはまだ昨日を追いかけて」というのがあったなと思い出しました。