第3回 あまりに多くのことを抱えすぎたときに思い出す詩
1日が24時間では足りないほどに忙しいときがありますよね。返信すべきメール、こなすべき会議、完成させるべき資料。燃えるように忙しい日々の充実と焦燥。
仕事はもちろんのこと私生活でも、自分という容器に収まりきらないほどに多くを抱え込み、動けなくなってしむまうことがあります。
他人の思いや感情、寄り添うべき時間、飛び越えるべき距離、自分自身の興味関心、すべてを一つの身体でこなせたら。
そんなときに思い出すのが、「わたしは蝋燭を 両端から燃やす」ではじまる1920年の詩です。
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First Fig
By Edna St. Vincent Millay
My candle burns at both ends;
It will not last the night;
But ah, my foes, and oh, my friends —
It gives a lovely light!
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あざみの果
エドナ・セント・ヴィンセント・ミレイ
わたしは蠟燭を 両端から燃えす
この夜を越すこともなく
ああ わたしの憎き敵よ 愛しき友よ
燃える炎の煌めきよ
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英語のイディオムとしても定着している”burn the candle at both ends”「昼夜なくボロボロになるまで働く」ですが、この詩では一層凄みを感じる一行となっていますね。作者エドナ・セント・ヴィンセント・ミレイ自身も「闘う詩人」であり「行動する詩人」でした。
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両端から燃える蝋燭のように、他人の倍の熱量で、誰かを愛したり、人を助けたり、思いをカタチにしたり。果たして、そういう情熱のかたまりとも呼べる行動に、周りの人は言います。”It will not last to the night “「すぐ燃え尽きてしまうよ。一晩だって生き延びられやしないよ」と。
しかし、それに対して「敵よ、友よ」と呼びかけます。熱烈な瞬間を生きるとき、敵も味方も関係ないとでも言うように。敵とも呼べる人間との摩擦や衝突も、夜を輝かせる光、自分を奮い立たせるエネルギーになると。
うーん、”It gives a lovely light.”とまで言いますか!
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でも考えてみると、わたしたちも、日々こうした光を放って生きているのだと思うことがあります。
“But ah, my foes, and oh, my friends –“を「敵」や「味方」という言葉で訳しましたが、もっと広い意味で、心の中の2人の相反する自分とも言えるかもしれません。
あきらめようか、いいや、やっぱり資料を修正しよう、もう一回電話してみよう、このタイミングでメールしておこう。
自分も眠ってしまいそうだけどもう一冊絵本を読んであげよう、明日も早いけどお弁当を作ろう、嫌だと言って泣きわめいているけど寒いからこの上着を着せよう。
あきらめようと思うけど、あきらめきれない。多くのことを抱え込み苦しくても、やっぱりまた人生の荷物を背負い込んでしまう。しかし、そこには、自分が選んだことだから責任を引き受けるのだという矜持がある。
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こうして、自分のなかの「けど」と戦って、放たれる光。誰かが燃やしてくれるのではなく、自ら燃やす光なら、”a lovely light”だとわたしは思います。
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今回の訳のポイント
今回は、訳す際の永遠のテーマ、「自動詞 vs. 他動詞」が焦点の一つでした。蝋燭は「燃える」のか「燃やす」のか。原詩では”My candle burns…”と自動詞で「燃える」となっています。
わたし自身も、最初は「わたしの蝋燭は 両の端から 燃える」と訳したのですが、詩全体のエネルギーがもつ能動性に欠ける気がして、「燃やす」と他動詞的に訳してみました。
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そして、もう一つ。わたしの訳にある「憎き敵よ、愛しき友よ」ですが、「憎き」も「愛しき」も原詩ではどこにも書いていないじゃないかと。
これは日本語の冗長性で、リズムを整えてくれる枕詞のようなものと思います。賛否両論ありますが、わたしは嫌いではないです。
「白い雪」が、この論理の最たるものと思います。日本語では枕詞として意味なく「白い」が付け加えられます。一方英語では、わざわざ「白い」と言うからには白くない雪もあるのかという論理で、結局、snowとしか訳せないのです。
同じ内容の詩を日本語で書いたらどういう言葉を使うだろうか、日本語として味わうための自然なフレージングは何だろうか、いつもそれを考えます。