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こうもり

the apple of my eye

通訳・翻訳者リレーブログ

1月12日付の読売新聞夕刊に、作家の村上春樹氏が「翻訳の経年劣化について」という文を寄稿されていた。ご存知、村上氏といえば「海辺のカフカ」など国内外で注目される数々の作品を書かれる作家であると同時に、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」などアメリカ小説の翻訳もたくさん出されている。その翻訳作品をまとめたシリーズが刊行されるにあたり、今までの作品を見直し、手を入れた中で、実感されたことを述べられているのだ。

「既訳に対する今回の手の入れ方は、三つに大別できる」と。
(1) 単純なミス (おお! 村上春樹氏のような大作家・翻訳家でも、ミスをされるのだ!)
(2) 翻訳に対する姿勢の変化(それによって、『今ならこんな風には訳さない』と思われる箇所を補正されたそうだ)
(3) 日本語文体の変化(ご自身の文体の変化、日本語の言葉や文体の変化があると言われる)

詳しくは、記事をどこかで入手して読んでいただきたいが、今日は、村上氏も今回の手直しの中で「もっとも多くの割合を占めた」と言われている(3)について少しだけ。

村上春樹氏のお仕事と自分の仕事を同列において話をするのはおこがましいのを重々承知で、従って、決してそんなつもりではなく、でも、「日本語文体の変化」について意識しながら翻訳をすることは大切だろうな、と私も感じることが時々ある。

たとえば、訳文として「そのアベックはいつもイチャイチャしていた」という文章を今書いたら、きっと若い人たちに、「それってなに? 死語だよ死語!」と一笑に付されそうだ。いや、「アベック」なんて言葉を知らない人もいるに違いない。彼らの言葉なら「そのカップルはいつもラブラブだった」となるのだろうか。う〜ん、「カップル」ってどうだろう……。とまあ、悩むのだ。いや、悩むべきなのだ。もちろん、まず基本はその文章(原文)の種類やTPOなどとの兼ね合いで訳文の文体も決まるのだが、訳語や表現を選ぶ時に、村上氏の言う「現在の日本語の『空気』に沿った形」を意識していることは、文芸作品であろうとビジネス文書であろうと必要なのではないだろうか。

そうは言っても、古い時代のいわゆる「名訳」といわれるような翻訳も私は好きだ。たとえば『赤毛のアン』シリーズなら村岡花子さんの訳で親しんできたし、『くまのプーさん』なら石井桃子さんのだ。たしかに、すっかり水浸しになった森の中をプーがコブタを助けに行く時に「こうもり」に乗っていった、なんて言っても、うちの息子には「こうもりがさ=今の普通の傘」と説明しなければわからないけど。

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the apple of my eye

日本・米国にて商社勤務後、英国滞在中に翻訳者としての活動を開始。現在は、在宅翻訳者として多忙な日々を送る傍ら、出版翻訳コンテスト選定業務も手がけている。子育てにも奮闘中!

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