夢見る翻訳者
何かのはずみで翻訳を仕事にするようになって、後悔する日が時々ある。いや、結構ある。
一番後悔するのは、悪い夢を見た翌朝。
夢の中で私は、すでに納品してしまった仕事で、とてつもない誤訳をしたことに気付くのだ。
なんでこんな間違いをしでかしたのか、実にありえないレベルの誤訳で、慌てて納品した先に電話して「訂正させてください!」と頼むのだが、先方は「すでにお客様に納品してしまった」と言う。「えー!」と冷や汗をかいているところで大抵目が覚める。で、実際はその仕事、まだ納品していないものだったりする。でも全く理由のない夢ではなくて、作業を終えた部分でどうしても適切な訳語が見つからないとか、訳文が自分の中でしっくりこないなど、迷いがあるときなのだ。
誤訳をするかも、したかも、という恐怖は、翻訳を稼業にしている限り永久について回るのだろうか。言い訳をするわけではないが、そう度々はない(はずである)ものの、誤訳って後から見直すと「どうしてこんな?」と自分でも不思議に思う類のものがほとんど。魔が差したと言おうか、単なる不注意といおうか、いやそれだけに言い訳ができなくて辛いのだけれど。
こんなことを思ったのも、5月7日付の毎日新聞に掲載された記事を読み、聖書に登場する「らい病」という表現を、らい病患者への差別に繋がるものとして、別の表現に改めようという運動があることを知ったからだ。旧約聖書のレビ記などに「ツァラトの者は、(自分がそうであることを他人に知らせるために)、『汚れたもの、汚れたもの』と叫ばなければならない」などの記載があるそうだ。この「ツァラト」を、聖書の日本語訳では「らい病」と訳されているらしいが、ヘブライ語である「ツァラト」は、特にらい病/ハンセン病を指す言葉ではないらしい。で、この記事を読んだとたん私が思ったのは、このような表現の対象とされたらい病患者の皆さんが気の毒だとか、この表現を訂正することの是非とかよりも、「この聖書を最初に訳した人は、今になって誤訳を指摘されちゃったんだ」ということ。この自分の発想の情けなさには、愕然とする。
もちろん、日本で出版されている聖書は共同訳とか何とか委員会訳とかになっていて、特定の個人名で翻訳されているものではないし、英語版の聖書でも「ツァラト」の部分はハンセン病と訳されているとのことで、日本語訳での誤訳というより世界共通の、古い時代からの一般的な差別意識が反映されているものなのだろう。
以前は問題ないと思われていた表現が、現代になって問題視されるという事態は度々起こっている。『ちびくろサンボ』騒動は、その最たる例かもしれない。『ちびくろサンボ』は原作のタイトルも “The Story of Little Black Sambo” で、インドで暮らした経験のあるスコットランド人の女性が帰国後に書き、自分で挿絵も描いた作品。問題は、著作権が混乱して様々な海賊版が出版されたために、原作と異なる表現や挿絵が使われたことも一因となって、特にアフリカ系米国人への差別だという抗議の声が起こったというもので、日本語への翻訳が誤訳だとか訳語のどれかが差別用語だという話ではなかったけれど。大好きなお話だったので、一時は日本でも絶版になっていると知って悲しい気持ちになったものだ。誤解が解けたのか、元々差別に対する過剰反応だったのか、最近になってまた販売されるようになっている。だって、トラがグルグル回りすぎてバターになっちゃうなんて、面白すぎるんだもの。
聖書もサンボも時代を超えたベストセラー。『ダ・ヴィンチ・コード』もあちこちから盗作疑惑をかけられているように、ベストセラーになっちゃうと注目されるだけに影響力も大きくて大変だ。翻訳者としてはベストセラーの翻訳を手がけられたらラッキーなのだろうけど、力の足りなさもさることながら、私のような小心者にはとても無理な仕事だなぁ。出版されちゃってから未来永劫、毎晩悪夢にうなされるなんて、とても耐えられそうにない。いやいやだからって、日々の仕事で気の抜けた、あるいは手を抜いた翻訳をしているわけでは、決してありませんので、悪しからず。