深まる悩み
ここのところ、法律系の翻訳が続いた。
それで思ったこと。
翻訳作業をしていて困るのは、「これを読んだ人がこの表現で分かるだろうか」と迷う時。
たとえば英米法の consideration という言葉。「考える」という意味の consider の名詞形……ではなく、「約因」という意味。AさんとBさんが、みかんの売買契約を交わしたときに、Aさんはみかんを、Bさんは代金をそれぞれ「約因」として相手に提供する、という考え方なんだけど、英米法固有の概念で日本にはないものなので、はたして、「〜を約因に」なんていう訳文のままにしておいて、読んだ人は分かるかな、と思うことがある。
mortgage も、そう。欧米で家・不動産を買うときに銀行などから借りて組むローンのことなのだけれど、契約書や金融関連文書でなければ「住宅ローン」としておいたほうが、一般の人には分かりやすいだろう。でも、正確にいうと日本の一般の住宅ローンとは仕組みが違うので、「譲渡抵当」としたほうが、いやいや、「モーゲッジ」のほうがいいかな、といろいろ悩む。
また、適切な訳語が見つからない時も困る。たとえば、これも契約書などの法律文書の話だが、英文の法律文書ってとにかく全てを漏らさずに書いておこうといわんばかりに、よく似た表現を並べ立てる性質があるのだ。例を挙げると、日本語で「権利」「権限」みたいな意味の言葉として、right, interest, title, ownership, proprietary right, power, authority, と書き連ねてあると、「権利」「所有権」「権限」「権原」くらいまで訳語をつけて(順不同)、それ以上続かなくなってしまう。税金関連でも、tax, charge, levy, duty, tariff, customs, custom duty, impost….. 全部が同じ意味ではないから、なるべくそれぞれに訳語をつけたいのだけど、日本語が足りない。
非常に特殊な用語なら、【訳注】なんて添えておいて、一言説明する手もあるが、「権利」シリーズも「税金」シリーズも、わりとよく登場するので、「知ってる人は知っている、知らない人は覚えてね♪」的な存在。いちいち訳注をつけるのは、クライアントさんに失礼だろうか、それとも不親切だろうか……と、ここでも悩むのである。
こういうときにヤッパリ(あちこちで言っていることだけど)、この翻訳は誰が、どんな目的で使用するのか、というのを予めこちらに伝えておいていただけると、無駄な悩みの1つや2つは省けるのではないかと思うのだ。企業の中でも法務部の中で使用するなら、ある程度の法律専門用語を使ってもOKだろうが、他の部署で資料として見るだけ、みたいなものならもう少し砕いた表現にしたり、訳注をたくさんつけてあげた方が親切かもしれないし……という意味で。
で、昨日はちょっと驚いた。
ある日本企業と米国企業の契約書の仕事で、翻訳会社を通して「資料です」とお伝えいただいたのは有り難かったのだが、「『この翻訳はあくまで資料であって、契約は、英文契約書で行います』、のような意味の文章を表紙かどこかに書き加えてくれないか」というエンド・ユーザーさんからの注文付だった。
へ? いや、そういうことは、きちんと契約書の本文中に条文として挿入しておかないと、一翻訳者が勝手に書き加える類の話では……。実際にそういう条文を最初から挿入してある契約書も多いし。クライアントさんには、その旨をお伝えして、丁重にお断りした。でもその「英文契約書で行います」の文章は、誰が誰に見せるつもりのものだったのだろう。見たところ、この契約書のドラフトは相手の米国企業側が作成したようなのだが、だったら日本企業側からわざわざ「英語でやります」と言う必要はないし……。
またまた悩みが深まってしまった。