カタカナの侵略
最近は、和訳の場合の翻訳字数が増えたと工藤社長からうかがった。カタカナ語が増えたからだとか(でしたっけ?)。
そうだよなぁと思う。特にコンピューター用語。
たとえば integration は「統合」といわずに「インテグレーション」と言うし、「更新」も「アップデート」と言っちゃうことが増えた。GUI が何の略語か説明しようと思ったら、「グラフィカル・ユーザー・インターフェース」と言わないと、「画像……利用者……☆※!●?」になっちゃって何のことか分からない。
同じ現象が、映画の題名にも起こっている、と思う。
手持ちのDVDの背表紙をずーっと見ていくと(趣味がバレてしまい恥ずかしいけど)、「イングリッシュ・ペイシェント」、「ビッグ・フィッシュ」、「ゴスフォード・パーク」、「ビフォア・サンセット」、「フル・モンティ」……。カタカナばっか。あった、長いの。「トゥー・ウィークス・ノーティス」
思えば、昔の映画の邦題って、趣があった。美しかった。
「哀愁(Waterloo Bridge)」(1940)、「慕情(Love Is A Many-Splendored Thing)」(1955)、「群衆(Meet John Doe)」、(1941)、「追憶(The Way We Were)」(1973)
二文字熟語のタイトルをいくつか拾ってみたけど、「うまい!」と唸ってしまう。これらの作品がこれからリリースされるとしたらきっと、「慕情」以外はすべて、そのままカタカナのタイトルにしているんじゃないかな。「ミート・ジョン・ドー」。「プライベート・ライアン」みたい。
原題よりも邦題の方が上手いと思うものだってある。
「翼よ、あれが巴里の灯だ!(The Spirit Of St. Louis)」(1957)。史上初の大西洋横断無着陸単独飛行を行ったチャールズ・A・リンドバーグの話。巨匠ビリー・ワイルダーと名優ジェイムズ・スチュワートだけど、これは邦題の方が勝ち。セント・ルイス魂号という飛行機の名前は知らなくても、リンドバーグがパリ上空で言ったというこのセリフは知っている人が多いはず。
「明日に向かって撃て! (Butch Cassidy And The Sundance Kid)」(1969)だって、なかなかいい。原題をカタカタ表記にしたって長ったらしいだけで、この2人組強盗の伝説を知らない日本人にはピンとこない。でもきっとこの作品を見たことがある人は、後にこの邦題を目にする度に、若き日の美しいP・ニューマンとR・レッドフォードが警官に取り囲まれて絶体絶命の中、銃を撃ちながら飛び出していく、あのラストシーンを思い出すだろう。
ところが、70年代後半から80年代になって、邦題のつけ方がひどくいい加減になる。やたらと「愛と○○の××」が増えるのだ。
「愛と喝采の日々(The Turning Point)」(1977)、「愛と哀しみのボレロ(Les Uns Et Les Autres Bolero)」(1981)、「愛と青春の旅立ち(An Officer And A Gentleman)」(1982)、「愛と追憶の日々(Terms Of Endearment)」(1983)、「愛と哀しみの果て(Out Of Africa)」(1985)、と続き、90年代になってもまだ、「愛と哀しみの旅路(Come See The Paradise)」(1990)、「愛と死の間で(Dead Again)」(1991)「愛と精霊の家(The House Of The Spirits)」(1993)と、どれもハリウッドの大スターが出演し、皆さんご覧になったことがある、少なくともタイトルを眼にしたことくらいはある有名作品。
今、映画の邦題がカタカナ表記に走っているのは、この時代の悪夢があるからじゃないか、と個人的には思っている。明らかに評判が悪かったもの。「愛と哀しみの果て」くらいから。工夫もセンスも感じられない。
だけど、この後の邦題で、「ほほう!」と思った作品がある。
ハリソン・フォード主演の「今そこにある危機」(1994)。
まず小説の翻訳本があって、そこから映画の邦題を決めているのだが、トム・クランシー作の原題は”Clear And Present Danger” 。これは元々アメリカの法律用語で、言論の自由の規制に関する法理を指す。簡単に言うと、ある言論が、違法な行動を起こさせる明白かつ現在の危険を伴う場合、この言論を規制することが合憲と認められる、というもの。テロを煽る演説をするビン・ラーディンみたいなのは、米国の憲法ではアウト、ということなのだ。
この法理の訳として「明白かつ現在の危険」と、東京大学出版会の「英米法辞典」には出ている。一般に、どんな用語でも定訳がある場合、それを崩すのは勇気が要るだろう。「指輪物語」は「ロード・オブ・ザ・リング」になったけど、カタカナにしただけ。”Girl With A Pearl Earring”(2003) は、絵のタイトルの定訳に合わせて「真珠の耳飾りの少女」。グレアム・グリーンの “The End Of The Affair”(1999) も、小説の翻訳題に合わせて「ことの終わり」。(←「愛と哀しみの終わり」なんてのにされなくて、良かった。)
だけど「明白かつ現在の危険」じゃ、サスペンスの題名らしくはない。かといってカタカナじゃ長すぎるし。そこで、原作小説の翻訳で「いま、そこにある危機」というタイトルにしたのは、とてもよかったと思うのだ。特に「そこにある」と言いかえるなんて、絶妙。映画のタイトルは「いま」を「今」と漢字にし、テン「、」も外している。確かにそれで引き締まったような印象もある。同じシリーズの「愛国者のゲーム」は、映画では「パトリオット・ゲーム」。実際のそのあたりの意図なんかも、聞いてみたいなぁ。
映画の題名や電脳用語(←無理に漢字にしている)に限らず、なんでもかんでもカタカナで処理する今の傾向、この先もずっと続くのだろうか。それも言語として、ちょっと貧しいような気がするのである。