がんばれ受験生
最近、新聞を変えた。
何かポリシーがあって変えたわけじゃなく、単に優柔不断というかセールスさんの口車に乗っただけというか景品につられたというか。新しい新聞の夕刊には時々、中学入試向けの問題が載っている。
私は附属小学校からの選抜試験という中途半端な入試だったので、塾にも行かず、あまり勉強しなかった。当時ですらそんなだから、今更中学入試向けの問題なんて解けるわけもない。あ、算数の話だ。国語はさすがに大丈夫。
それにしても、小学生にこんな難しい問題をやらせて何か意味があるのかと、負け惜しみ的に考えたりもする。
たまたまここ数週間、国公立大学の2次試験の長文読解問題を翻訳するという仕事をしている。受験対策本で使うらしい。
こちらは対照的にとても意味があると思う。
要は、大学に入って勉強するならこの程度の英文はさらさらっと読んでもらわなければ困る、という大学側のメッセージが提示されているのだろう。短いもので400ワード強、長いものになると800ワードくらいの、かなり噛み応えのあるエッセーや雑誌記事などが主流。
テーマは幸福論など哲学的なものから、クローン技術やピタゴラスの宇宙論の話、環境問題や生物・化学兵器問題といった時事的なものなど幅広く、読み物として面白い。翻訳しなくちゃいけないことを忘れて読みふけってしまうほどだ。
しかし、自分が受験生だった頃は「面白い」と感じた記憶などなく、英語は得意科目ではあったものの、学校でこんなに高度な内容を扱いはしないし、通信教育や問題集で取り組んでは「あ〜めんどくさいな〜」と思っていた。
英語が読めても、書かれた内容についての知識や理解や関心がないからそうなっていたわけだ。「余暇」についてバートランド・ラッセルやジュリエット・ショアがどう考えたかとか、18世紀の英国の化学者プリーストリーが自分の発見した酸素をどういうものだと勘違いしていただとか、キッチンの中での男女の力関係がどうだとか、高校生の実生活や興味の範囲とはややかけ離れた内容だからだ。
あの頃、こういった長文読解をさらさらと解こうと思ったら、英語だけ勉強してたってだめなのだと今なら言える。今はお蔭様でその頃から経過したン十年の年月の間にちびちびと蓄積した知識や見聞や経験、人生での必要性から広がる興味や理解の幅、仕事のために半ば強制的に読んだものの内容などで、こういった文章を読みこなすことができているが。
さらに思うのは、いつも同じ分野の翻訳ばかりしているのならかまわないが、そうではない、そうではいけない現状があるのだから、常に自分の知識や興味の対象を広げる努力を怠ってはならず、逆に仕事のためにその必要性に迫られて努力する機会を得ていることを感謝しよう、などと思うのである。
ちなみに長文読解の課題文の翻訳は、結構難しい。あまりに滑らかに、自然な日本語で意訳しすぎては、受験生諸君にとっては「原文のどこがどうなってそういう意味になるのか?」と、かえって不親切だからだ。ポイントとなる慣用句や構文が浮き出てくるような下手くそな訳文にしてあげないと。
今年の入試シーズンは終わったけど、これから受験生になる人、もう1回受験生をやる人、あと1年がんばって欲しい!