通訳と居眠り
先日行われた、ある理化学系技術会議での光景。日本側のある若い技術者が、自社製品をアメリカ本部の役員へプレゼンテーションを行っていました。会議の日本側出席者は自社製品に関するプレゼンですから、話を聞くまでもありません。アメリカ側にとっても、どちらかというと儀礼的にプレゼンテーションを聞いているだけ。特に斬新なアイデアがあるわけでも、すばらしい売り上げにつながる見込みがあるわけでもありませんでした。逐次通訳で行われたこの発表は最終的に40分以上がかかりました。すると、プレゼンの途中で寝る人が続発…… それも1人や2人ではないのです。それほど大きくない会議室で行われたプレゼンでしたから、喋っている技術者にとってはショックなはずです。この経験から、通訳者の責任について、再度考えさせられました。
正直、「これなら眠くなってしまうかな」という話のプレゼンテーションではありました。技術者の喋り方も単調で、子守唄のよう。時間は昼休み直後の、一番眠くなる時間。妙に会議室においてあるポットの中のコーヒーの消費スピードが速いのも頷けます。そしてプレゼンテーションの前半の逐次通訳を担当していた私のパートナー通訳者も、訳は非常に性格ですが、抑揚も、メリハリも少ない単調な訳出。確かに、プレゼンターのしゃべり方に忠実、といえばそのとおりの喋り方。しかし、そこで私が考えたのは、そもそも通訳者の役割とは何なのか、ということ。
通訳者の第1の責務は「ある言語の発話を別言語に換えること」です。そう考えると、確かに私のパートナーは彼女の責任を十分に果たしていたと思います。しかし通訳者にはコミュニケーションを手助けする、という役割もあるはずです。今回の若い技術者は、まだ経験も少なく、緊張していたために眠たくなるような発表をしてしまいました。しかし彼にとっては、朝の出社から夜遅くの帰社までを費やして研究を続けている新素材であり、場合によってはアメリカ本部の役員の前でプレゼンテーションを行う機会など、今後数年ないかもしれません(「あいつの話はどうもつまらん」と思われてしまっては、数十年機会は回ってこないかもしれません)。そう考えると、通訳者として、確かに退屈なプレゼンテーションかも知れませんが、せめて英訳だけでも、精一杯魅力あるプレゼンテーションにしたい、と思いました。そして、そうすることができるはずです。確かに余計な労力かもしれません。「通訳は言葉だけ訳していればいい」と考えれば不必要なことであり、場面によっては「余計なお世話」かも知れません。しかしこの若い技術者の「伝えたい」「わかってほしい」という気持ちを伝えるのも、通訳者の仕事だと感じました。
途中でパートナーの時間が経過し、私が逐次通訳を担当しました。どれだけスピーカーの気持ちを伝えられたかはわかりませんが、精一杯魅力あるプレゼンテーションにしようと努めました(少なくとも、寝ている人はいなくなりました)。英語を聞いているアメリカ人役員の目を見て訳し、あえて手を使ったジェスチャーを入れ(逐次通訳の特権ですね)、関心を引くように間を取ったり、声にいつも以上の抑揚をつけたりしました。これは違った通訳者像を持つ通訳者にとっては、通訳者として許されるべき行為ではないのかもしれません。「オリジナルに足し算も引き算もしない」のが理想なら、私の通訳は「足し算」どころか、「掛け算」かも知れません。しかし私にとってはどれだけ字面は的確な訳をしても、気持ちや熱意のこもらない訳に価値はありません(もちろん、正確性だけが求められる仕事があることも理解しています)。逆に、少しくらい荒削りな訳であっても、それをカバーする位の「味」がある通訳もあるでしょう。
これと同じことを通訳講座に出席している学生にも求めています。必ずしも通訳講座に出席している学生が通訳者になるわけでも、通訳者を目指しているわけでもありません。しかし誰もがよりよいコミュニケーションをしたいと思っています。相手の感情を汲み取りながら話を聞き、話をすることは、通訳者である、ないに関わらず、非常に大切なことだと思います。先日、ある機会で2名の非常に優秀な学生通訳を評価する機会に恵まれました。1人の学生は、文句の付け所が無いくらいに的確な訳出をしましたが、何かが物足りませんでした。もう1人の学生は、やや訳落しがあるのですが、訳にはその学生「らしさ」が出ていました。非常に難しい判断ですが、私は後者の学生をより高く評価しました。確かに通訳者は自らの存在を消して、通訳に没頭しなければなりません。しかし複数言語を操る人が星の数ほど存在し、通訳者の数も増加の一途をたどる中、「是非あの人に通訳してほしい」とお客様に言って頂くには、通訳者として当たり前の正確な訳出以外に、何らかの付加価値が必要でしょう。私はコミュニケーションのアシスタンスも通訳者の責務の一部だと思いますが、それを付加価値とみなしたとしても、通訳者として何らかの手助けをする必要があると思います。そしてこれからも私は、この点を自分の通訳の真髄として、がんばっていこうと感じました。