主観の存在
通っているジムで、私の訳したものを読んでくださっている方が何人かおられるのですが、先日その方たちから「新しいのは、ヒロインがすごくかわいらしくて、よかった」と言われ、どきっとしました。実は、訳しているとき私自身そう思っていたので、ひょっとして自分の気持ちがどこかに出てしまっていたのかと不安になったからです。
訳者として名前がクレジットされることになり、訳した日本語の文章に著作権が発生する場合、どこまで「私」の感覚が反映されることが許されるのか、反映されるべきなのか、悩むところです。原文を読んで、私が頭に描いたものを描写するということは、翻訳するという作業は同じでも、原文を細大漏らさず、忠実に、かつわかりやすく他の言語にする、という産業翻訳と本質が違うのでは、と思うこともあれば、原書の世界をできるだけそのまま伝えるべきだろう、と考え直すこともあります。でも、できるだけ、そのまま、っていったい?
「私」というフィルターを通ってしまうことは前提条件としてしょうがないでしょう。かわいいな、すてきだな、と私が思った登場人物が、読んだ人にも同じように愛されるのはいいことなのかもしれません。しかし、本来愛されるべき主人公に対して、私が、「何なのよ、しっかりしなさいよ」と思ってしまったりしたときに、そんな不快感が伝わってしまうと、訳としては大失敗です。キャラの中には”love-to-hate”というか、憎まれるべき存在もいて、そんなキャラが憎まれるのはそれでいいのでしょうが、親しみをもたれるべきキャラが不快感を与えたのでは困ります。訳にそんな感情が必要以上に、にじみでてしまっていたらどうしよう?
さらに、キャラで”love-to-hate”なのか、共感を覚えてもらうべきなのかが、偏った人格の私が、判断を間違えていることもあるはずです。たとえばですね、訳とはまるで無関係ですが、『NANA』のハチとか、『24』のキムとか、私はずっと嫌われキャラだと思っていたのに——ああ、ウザい、これほど嫌なキャラクターを作れる作家・脚本家ってすごいわ、と感心さえしていたのに——え、共感する人がいるわけ? と知ったときの衝撃!
そんなとき頼りにするのが、編集者との信頼関係です。この人が、私に任せてくれたのなら大丈夫だろう、私の偏った捉え方を修正してくれるはず、みたいな感覚です。強い主張を持つ私ですが、基本的には翻訳作業は編集者あるいは産業翻訳ではコーディネーターが、訳のトーンや用字用語の統一基準について、最終的な判断を下すべきだと思っているので、負けずに主張し返してもらうと、とてもありがたいです。