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新学期に

仙人

通訳・翻訳者リレーブログ

マリコさんが、しばらく前に「ぶっちゃけ」というような言葉を使いたくないと書いておられました。同感です。しかし、自分がきちんとした日本語を使えているかと考えると、ふと不安になるときもあります。文字になって残る翻訳についてはなおさらです。
最近の英語フィクションは、どんどん書き言葉と話し言葉の違いが少なくなってきています。読んでいるだけだと、そのほうがしっくり来るというか、楽しいと思います。もちろん日本語に比べると、もともと英語は書き言葉と話し言葉の差が大きくないのは、おわかりだと思いますが、昔風の、セミコロンやダッシュもなしに延々と何ページも主人公の心の動きがモノローグで続く文章より、今風のcrispというのか、てきぱき、短いセンテンスで、たたみかけるような文体は、読みやすく感じます。ところが訳すときには、そのスリリングさが罠をかけるように待ち構えています。今風の英語でも「壊れた」言語への進行度は日本語より緩やかであるからではないかと考えているのですが、正確な訳とスピード感を損なわないことにだけ気を取られていると、読み返したときに、ずいぶん訳文が「壊れて」いて、はっとします。
それで、テンポよく、なおかつきちんとした言葉にしようと思うと、ときどき格調高い日本語に接する必要性を感ずるようになります。何年か前に「声を出して読む」べき日本語がはやったことがありましたよね。あの当時は、言葉の切り取り、文章の断片だけを読むことを少し疑問に思ったりもしたのですが、声を出して美しい日本語を読みたいというコンセプトには賛成で、私も実は同じようなことをしています。
私の秘密兵器は、中島敦の小説です。高校の教科書に載っていた『山月記』などの短編がいくつか入った文庫は、仕事をするコンピュータのすぐ横に置いてあって、『山月記』や同じく漢詩に題材をとった『李陵』など、文章の歯切れのよさが声を出して読むのが気持ちよくて、訳に詰まって頭をどこかにぶつけたい気持ちになるとき、たまに何ページも続けて、アナウンサー気分で読み上げます。そのあと、最後まで読むと、その内容に深く自戒させられ悲しい気分になるのですが、あまり不快な悲しさにはならないのも不思議です。簡潔で歯切れのよい日本語に触れたいときに、ちょっとおすすめです。

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記事を書いた人

仙人

大学在学中に通訳者としての活動を開始。卒業後は、外資系消費財メーカーのマーケティング分野でキャリアアップ。その後、外資系企業のトップまでキャリアを極めた後、現在は、フリーランス翻訳者として活躍中。趣味は、「筋肉を大きくすることと読書」

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