本物は語る
たまにお仕事をいただくクライアントに、美術展の企画・運営をなさっている方がいる。ここからの依頼の中には、美術展のパンフレットの翻訳などもあり、大変訳していても楽しいお仕事が多い。しかし、楽しいとばかり言って鼻歌交じりでいられないのは、お仕事の定め。時には大量のパンフレット原稿を短納期に仕上げてほしい、という依頼もあるわけで、しかもまだ文面に添付する写真が用意できていないので文章だけ、ということもある。これが実は難点なのだ。もちろん、文章だけでも十分意味は通じる。通じるけれども、例えば宝石の色彩について説明した文章などに出会うと、色彩の感覚というのは英語文化と日本語文化の間でも隔たりがあり、一概に置き換えが利かないものが多い。そうなると、写真を見てどの訳語にするか吟味したいところなのだが、写真はなし。仕方ないので、悪あがきをしてインターネットでのイメージ検索でその色の名前を入力して検索してみたり、有名な宝石であればその宝石の名前や製作者の名前を入れて検索してみたり、と限られた時間の中でも最大限の調査をしてようやく訳文は完成。しかし、後日出来上がった写真を見て、微妙に違うその色合いに愕然とすることも一度や二度ではなかった。正に百聞は一見に如かず。あわててクライアントの方にご連絡して、訳語を訂正してもらったりしたものだった。
そんな紆余曲折を経てやってくる展覧会当日。自分がこれまでパソコンの画面でばかり見ていた宝石類が目の前に飾られている姿は、かなりの興奮もの! そしてなんと言っても衝撃的なのは、本物の持つ迫力のすごさ。私はこれまで、この宝石のカットの角度がどう、放つ色彩の細やかさがどう、製作者は誰、どの流れを汲む作品、など、ありとあらゆる詳細情報をあーでもない、こーでもないと悩んでこねくり回して文章をひねり出してきたけれども、もう、そんなのはすべてどこかへ飛んでいってしまうほどの存在感。宝石は語ります。「薀蓄はさておき、私を見て! 私の存在意義は、今目の前の私そのものがすべてなのよ!」と。こういう本物の持つ迫力までを含めて、どうやってそれを文章に映しこめるのか、そこが文章の書き手の力量なのだ、と心から悟った瞬間でした。そしてそれはまた、目で見る情報と、文章で理解する情報の隔たり、ということについても考えさせられる瞬間でした。翻訳とは、結局は自分ではない、他人の書いた文章の書き換えであり、さらにはその元の文章も、作者の目の前、もしくは心の中にある風景や事物を表現しようとして書き表したもの。つまり、結局は見るべきそのものではなく、見ている対象を映し出す鏡なのである。すべての表現は、読む人すべての心に同じものが思い浮かぶよう、工夫したものであり、そのものではあり得ない。それはイタコの口写しが元の人物に成り代わることはないのと同じで、結局はその対象そのものではなく、その対象を思い起こさせるためのきっかけなのだ。そうしたきっかけに分類される作業には、演劇あり、写真あり、絵画あり、文章あり。もちろん、突き詰めればそのきっかけとしての表現の美の追求、ということも求められては行くのだが、こと翻訳に関しては、究極の対象である、表現された事物や風景そのものに対して謙虚な姿勢を持って吟味して、その上で原文のスタイルを尊重することが大切なのだなぁ、と日々考えている。訳した文章の数だけ、表現の対象と、それを見つめる原文の記述者の目線がある。だから翻訳は面白いと思う。