三つ子の魂百まで…?
私は俗に言う「帰国子女」なるものではありますが、世間の抱いている「帰国子女」のイメージというのは、ある程度大きくなるまで海外にいる、というのが前提なのではないかと思います。その点、私はイギリスに8歳までしかいなかったので、「帰国子女なんです!」と大見得を切って言うのには少々ためらいを感じます。周囲はそう聞いた瞬間に、「じゃあ、卒業した小学校、中学校は海外?」と聞くこともあり、そこで、「いえ、千葉県の○○市立××小学校卒です」などというと、白けたムードが漂ってしまったりします。とは言え、自分が現在翻訳という仕事を生業とするに至った経緯には少なからずその経験が生かされているはずと考えて、自信を持とう、と自分に言い聞かせていたりしたのですが…。
先日、子供のころに住んでいた家を両親が処分することになり、その家に残っていた私の荷物が宅急便で送られてきました。あまりの懐かしさにいそいそと箱を開けて中身を見ると、中にはなんとイギリス時代の学校のノートや作品も! ページをめくれば、おぼろげな記憶の中に忘れかけていたあの頃の授業の様子が彷彿とされる、私の筆跡の数々。(ちなみに当時、イギリスでは学校の教科書は学校の所有物で、学校から貸与されてまた返却するシステムだったため、教科書は手元にないのです。今はどうなのかしら。)
実は、私は帰国した年齢が低かったこともあり、英語をすっかり忘れ去ってしまっていた時代がありました。帰国当時は日本語に苦労していたのに、2〜3年でその苦労もどこへやら、今度は英語をすっかり忘れてしまい、小学校高学年になってイギリスで近所だった方が遊びに来てもまったくしゃべれずアワアワする始末。そんな時代を経て、今やっと職業として英語を使える立場になったからには、子供の頃のノートなんて怖くない!と思い、余裕綽々で中身を見ていきました。…しかし、そこで感じた衝撃。はっきり言って、文章が完全に「イギリス人」なのです。もちろん、現地校に通っていたわけですからそうでなくては困ってしまうのですが、今の私にここまでの「イギリス人的視点の文章」が果たして書けるものなのか、と焦燥感と嫉妬を感じてしまうほど。
例えば日本語から英語に翻訳する際に、日本語の「恭しくへりくだっています! へへー。」という文章を、どうやって英語の「見て! 私のこの能力は素晴らしいでしょう!?」という表現に置き換えるか、いつも悩むものです。対象となる文書の性質によっても対応は変わるでしょう。プレゼンテーションであれば自分の能力をアピールすることが大切ですから、思い切って自分の能力を前面に出すような表現に。レターであれば、次に当人同士が会った時に印象のギャップが出ないように、恭しさを残しつつも、不自然でない程度に英語的な表現に、と置き換えて来ました。
でも今回、たった8歳の頃の自分の書いたノートを見て、自分の英語の文章力は、今のままで良いのか、もっと勉強が必要なのではないか、と思わずにはいられませんでした。英語で文章を書き、その能力の対価として報酬をいただくのであれば、言葉が正しいだけでなく異なる文化を持つ読み手から見ても自然な内容になっていなくては、お金をいただくわけにはいきません。今回の衝撃に学びつつ、研鑽を積まなければ…。あぁ、三つ子の魂百まで、そうあってほしい、とやや他力本願的な心境にすらなりつつあります。