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書物の効用

パンの笛

通訳・翻訳者リレーブログ

 いよいよお正月休みも終わり、本格稼動の日々が始まりました。今日から息子の小学校も再開し、こちらもようやく一息、と言ったところです。
 ブランクというのはいつでも怖いもので、今回のようにほぼ10日近く一切仕事をしなかったりすると、仕事を再開したときにひどく能率が落ちていたり(ってそれは避けられませんが)、はたまた能率のみならず能力が落ちていたりしたらどうしよう、と仕事に手をつける前からドキドキしてしまうものです。そんな心境を反映してか、初夢は見事に、納期が迫っているのに時間が全然足りなくて、切羽詰っているというものでした…。目が覚めたときの焦燥感たるや、尋常ではありません。今年も一年、気を引き締めていきなさい、という神様からのメッセージだったに違いありません…。
 ところで、新年初のお仕事は、非常に日本語の表現力を求められるものでした。常日頃から、表現に工夫のし甲斐のある仕事をしたい!と吹聴してまわっている私。こういう仕事をいただけるようになったことは、本当に嬉しいものです。当然、その期待に応えたいとは思っていますが、こういう性質のお仕事の場合、実力が如実に反映されてしまうのも事実。特にクライアントからは顔の見えない在宅翻訳者としては、アピールの場は成果物しかないわけですから、そこで「さんざん考えてもこの程度だったのね」と思われては、翻訳者人生もおしまいです。(ちょっと大げさかな? でも心境は正にコレです。)そこで、ブランクを埋める意味も込めて、自分なりに精一杯、豊かな表現を心がけた…つもりです。今回は原稿自体は非常に短いものだったため、原文の単語一つ一つに思いを馳せながら、訳してみました。英語の単語と日本語の単語はもちろん一対一ではありませんから、それぞれの単語からイメージされる事柄の最小公倍数に当たる表現を探し、それでいて完成した訳文そのものが自然な流れになるよう、自分の言語感覚、そして手持ちの辞書を総動員しています。
 今回、いつもよりちょっと多めに辞書を引いていて、思い出したエピソードがありました。私は翻訳業に着く前、ほんの短期間でしたが、翻訳学校に通いました。私が通った講座の先生は、まだコンピュータの黎明期に外資系コンピュータ会社の日本支社に勤務して、翻訳も手がけていたベテランの先生でした。コンピュータの根本的仕組みに対する造詣も深く、その先生からは翻訳の手法以外にも、多くの知識を授けていただきました。ですが、おそらく退職されてからかなりの期間を経ていたのではないかと思われます。新し物好きの私は、最初の授業に辞書を数種類インストールしたパソコンを意気揚々持参して行ったのです。すると先生から開口一番、「辞書はパタンと閉じたときに音のするものがよろしい。コンピュータの辞書は邪道です」と言われてしまいました。あまりに突然の発言にびっくりしたのは言うまでもありません。しかし、私も私なりの考えがあって採用した手法でしたから、やや意固地になって、結局そのままパソコンを持参し続けたのです。もちろん、先生からいい顔をされなかったのは言うまでもありません。それ以来現在に至るまで、やっぱり私のメインの辞書はパソコンにインストールしたものや、インターネット経由のもの。でも、今回は、手元の紙の辞書も活用する必要性に迫られていましたので、紙の大辞典や類語辞典などもたくさん机に引っ張り出してきて調べものをしました。すると、コンピュータの辞書を利用したときには感じなかった、なんともいえない豊かな気持ちが感じられたのです。細かく分析すれば、例えば言葉を一つ調べただけでも、視野の中に他の単語も目に入って、それぞれの単語のニュアンスの違いを無意識に感じ取ったり、自分が調べている単語からどんな単語が派生して生まれたのかということを知ったりする、というのも要因の一つだったと思います。そしてそれに加えてもう一つ考えられるのが、本の「匂い」。私自身が所有している辞書はどれもそんなに古いものではありませんが、それでも紙独特の匂いがあります。その本から漂う紙の匂いに包まれていると、とても豊かな気持ちになります。そしてその気持ちを以って文章を考えると、それまでよりもずっとスムーズに訳文が思いつくように感じられたのです。今さらにになって、あぁ、あの先生のおっしゃっていたことも理にかなっていたんだと悟った次第です。仕事がはかどったと考えたのは、本当は私の気のせいかもしれません。でも、それが私の仕事ぶりにいい影響を与えるのなら、それでもいいのです。鰯の頭も信心から。単純な人間は、こういうとき得です。能天気にもそう考えて納品までこぎつけました。これで晴れやかに明日を迎えられそうです。

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記事を書いた人

パンの笛

幼少時に英国に滞在。数年の会社勤めを経て、出産後の仕事復帰を機に翻訳を本格的に学習。現在はフリーランスの在宅翻訳者。お酒好きで人好き、おしゃべり好きの一児の母。

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