存在感のなさこそが実力の証
今日は楽しい火曜日です。そう、ムフフのバレエの日です。いつもはデスクにかじりついてお日様を見ることもあまりない私も、火曜ばかりは気合が入ります。仕事を効率よく仕上げて、バレエに行くぞー!の一心です。以前にも書いたことがありますが、今のお教室はなんと生ピアノ演奏のお教室です。芸術分野の専門学校が運営するお教室で、バレエ科もあるからこその体制なのでしょう。そんなに高くないお月謝にもかかわらず、生ピアノ演奏のレッスンに本格派の先生、そして昼間のクラスであるがための少人数。いいことずくめです。それにしてもこのピアノの演奏をしてくださるピアノの先生がとても優秀で、とにかくその「スゴさ」を感じさせないのです。通訳の場合にも、「頑張っている」ことを感じさせず、空気のようにすっと自然に耳になじむ通訳こそが実は本当の実力派である、と良く言われますよね。このピアノの先生も正にそんな存在で、バレエの先生が(一見)思いつきで組み立てているレッスンのプログラムを横で静かに的確に読み取って、瞬時に最適な曲を選んで弾き出すのです。レッスンを受けているこちらは自分のことで精一杯で、レッスン半ばには実は音楽が生のピアノであったことを忘れてしまうほどなのですが、ふとした瞬間に、私のような初心者向けに先生が「じゃあ、後半のグループには音楽をゆっくりにしてあげてください」と指示されているのを耳にして、そうだった、ピアノは弾いていただいているんだった、と思うほどなのです。
話は変わりますが、今年の読書体制に入って、一つ以前と変わったことがあります。それは、翻訳本を読むようになったこと。こんなことを言うと自分の不勉強を公表しているようでお恥ずかしい限りですが、これまで私は原本が英語の翻訳本はあまり読んでいなかったのです。どうも、読んでいるそばから、「この訳し方をしているということは、原文はこれかしら」とか、「どうしてこの単語を使うんだろう。私だったら絶対こうするのに」などと考えてしまって、実際の中身に集中しきれないのです。でも、もちろん私がこんなに偉そうに言えた義理ではないのは百も承知です。実際に自分が長文を訳してみると、批判するのと自分でやるのとでは大違いなのは明らかです。ちょっと訳しては「うーーん、違う」と思うのですが、じゃあどう違うからどうすればよいのか、というのはかなりの試行錯誤の末でない限り、出てこないのです。しかもそうして仕上げた文章でさえも、読んでみるとぎくしゃくしていることが多くて、我ながら嫌気がさしてしまうのです。もっと悔しいのは、「これはイケる」と思って書いた部分が、後になって読み返すと妙に鼻に付いたりして、返ってイヤらしい表現になっていること。自分がやってみてわかることですが、翻訳文にしても、読んでみてすっと目になじんで、言葉尻ではなくその伝えようとしている内容の本質の伝わる文章と言うのは、本当に洗練された文章なのです。そう、存在感のない文章こそが、本当に実力ある文章なのです。私もそんな翻訳文の書き手を目指して、日々精進です。願わくば、存在感のない実力派を通り越して、本質を捉えつつも私のワールドを垣間見せられるような翻訳者になりたい、というのが本音ではありますが。その高みへの道のりはまだまだ遠そうです…。