向き・不向き
昨日から、再び声が枯れてしわがれ声になってしまっています。週末に、以前息子が通っていた保育園の夏祭りがあって、家族ぐるみで遊びに行ったわけですが、そこでエンジョイしすぎてしまったようです。この保育園の夏祭りでは、クラスごとに親が出店した後に、最後にクラス対抗で親が舞台で出し物を演じて互いに競い合うイベントがあるのです。上級生の親になればなるほど、皆クラスの威信をかけて渾身のネタを考えて披露するので、どれも面白いものばかり。仮装あり、お笑いあり、ダンスあり、の大騒ぎです。で、つい見ているこちらも熱が入ってしまって、掛け声などをかけているうちに声を枯らすに至ってしまうわけです。まぁ、参加したわけでもなく見に行っただけなのにそこまでエキサイトする私もどうかしている、とも言えますが…。でも本質的には、私は声帯が弱いのか、すぐに声が枯れてしまうのです。普段は声が大きくておしゃべりな分、ギャップが激しいのも私としては悩みの種です。なにせ、自分の通常のペースだと思って話していても、1時間ほど続けてしゃべっていると、翌日には確実に声が枯れてしまうのです。(もしくは、声が大きくておしゃべりだからこそ、声が枯れるのかもしれません。)そこでふと思います。私がもし通訳になっていたら、これほどの身体的ハンデもないなぁ、と…。以前にも触れたことがありますが、私は性格的にはどちらかというと翻訳者よりは通訳者が向いているかな、と思うのですが、奇妙な巡り会わせから今は翻訳業に従事しているわけです。でも学生時代は、将来の夢の一つとして「通訳者になりたい」と漠然とながらも考えていたように思います。もしその後に順調に通訳者になっていたなら、通訳技術の訓練よりも何よりも、まずは声帯を鍛える必要があったかもしれません。そんなハンデによって、通訳者としての評価も左右されてしまっていたならば、と思うとぞっとします。むしろ、無意識に自分の向き・不向きを判断するときに、自分の声の弱さもどこかで考えていたのかもしれません。翻って、今の翻訳者としての生活。少々睡眠時間が短くてもあまり支障を来さないタイプの私は、身体的には向いていると言えるかもしれません。つまり、私は今の生活、結果としてはとても向いていたなぁ、と思うわけです。声が枯れていても、寝不足でボロボロの肌をしていても、仕事にはまったく支障もありませんしね! あぁ、とは言えとても不便です。おしゃべりなのに、しゃべると辛い、というのは拷問に近いものです。早く声を治して、また一杯おしゃべりがしたいのです!! でもそうするとまた声を枯らす、の悪循環ではなんですよねぇ。悩ましいです。