心の目で読もう
同じ翻訳でも色々な案件を手がける内に、やりやすいのもあれば、何度訳しても釈然としないものに巡り合うことも多々あります。字面としては確かにカンペキに置き換えられているはずなのに、何度出来上がった訳文を読んでも、一体何が言いたいのかわからなかったりするのです。こう、かゆいところに手が届いていないというのか、まわりくどく、言いたいことの核心の周囲にとぐろを巻いて、大事な部分は煙にまいてしまっているというのか。その場合大事になってくるのは、いかに原文を読み込んでいるかではないかと私は考えています。何度も何度も読むうちに、「あぁ、この文章はつまりはこういうことが言いたいのネ」と分かる瞬間がやってくるのです。心の目で読むというのか、いわゆるreading between the linesということなのでしょう。でも次に気になってしまうのは、果たして「心の目で読んでかみくだいた表現」に書き換えてしまって、本当の意味で「翻訳」と言えるのかどうか、ということです。ある意味、まわりくどく書いているのも原文の性質でもあるわけですから、そのまわりくどさを維持するのも大切なのかもしれないのです。これは未だに私の中で結論は出ていません。今のところは、扱っている文書の性質によって方針を変えています。つまり、ビジネス文書であれば内容が明確であることがまずは肝要、と考えてかみくだいた表現を用い、むしろ原文作者の「世界」が重んじられるような文書であれば(例えば同じビジネスでも書籍仕立てになっているようなものなど)、核心部分を理解し、それを念頭に置いた上で原文の表現を尊重した訳文にする、という風にしています。とは言え、毎回納期が来るまでは何度も読み返しては悩んでいます。私たち翻訳者は原文と照らし合わせた上で、「だってこう書いてあるもーん」と言えるわけですが、クライアントさまは出来上がった訳文しか読まなかったりするわけです。そのときに、私が思い込みで書いた表現をつきつけて良いものか。私の独断と偏見で作り上げた文章世界を押し付けて、その結果読んでいる人が正しく元の文章の言わんとしていることを、そしてその文章の世界を理解してくれるのか。クライアントの皆様、私が毎回選択している結論は、正しいと感じられているでしょうか…。聞いてみたい気もしますが、聞くのが怖い気もします。聞くまでもなく、自分の意見が正しい!と断言できれば良いのですが…。そうするにはもう少し研鑽が必要なようです。