言わない勇気も大事かな。
働かざる者、遊ぶべからず。ヴァーチャル・トリップにうつつを抜かしていられたのも束の間、今週はテレビの番組中で通訳するというお仕事がありました。仕事としては、けっこうヘヴィー級・・・密度がね。
「通訳」といっても、わたしはつねづね、その果たす役割はいくつかある、と考えています。純粋に機械的に言葉を置き換える作業にはじまって、気持ちまでを的確に伝える、場の空気を整えたり問題を解決したりする、商売に結びつけて売り上げを伸ばす役割までを背負う・・・などなどです。このお話は、長くなるのでまたこんど。
さて今回のテレビの仕事というのは、ある有名な外国人が某テレビ番組に出演するにあたり、事前の打ち合わせから本番収録中の身の回りのケア、司会者とのトークの内容の通訳(逐次)まででした。テレビの仕事をやりだしたばかりの頃は「もし間違ったらどうしよう〜」と不安もあったけど、どうも私はそこいらへん、心臓に適度に毛が生えているらしく、実力が伸びてもいないくせにいつのまにか度胸がすわってしまい、今ではマイクを持つとなんだか燃えます。それは、実力中程度でもどうにか「マイク持ち通訳」がさまになる方法がある、ということに気づいたからです。
私はまず、このテの仕事の時はメモをとりません。今回のこの外国人のお名前をここで披露するのは控えさせていただきますが、いわゆる「人気商売」のかたで、そのパーソナリティがにじみ出るような番組にするため、トーク部分が設けられていました。つまり、通訳は、その日の収録を見にきているお客さん、後日の放映を見る視聴者の心をとらえるような日本語でなければ、意味がないのです。
子供時代の生い立ちを聞かれて、外人が冗舌に応える。余裕で4つ、5つのエピソードが語られます。それをいちいちメモに取るとなると、通訳者の注意はまず「書く」ことに注がれます。目線も、メモ帳を見ている=下を向いている=客席のお客さんを見ていない。ここでまず「場の雰囲気」から自分が離れてしまっているのです。つぎに、自分が今書いたことを目で追いながら、すべてのエピソードを漏れなく通訳するべく「まずこれ、つぎにこれ・・・」という着眼点、つまり「箇条書き話法」で言葉を発してしまうのです。項目1から項目5までが整然と同じ重要度で語られます。
しかし、こういうトーンの日本語が、はたして観客の心を掴めるのか、どうか?
確かに、内容はみごとに伝わるでしょう。でも、舞台上の粋な外国人男性は、表情にも喜怒哀楽を盛り込み、とてもウィットの利いた、楽しい話をしてくれているのです、「自分の人気を上げるために」!! ならば、通訳が入ることでその人気が「さらに上がる」ぐらいの効果を提供できれば理想的ではありませんか。
そういう目的のためには、私は「耳」と「口」だけに集中しようと決めています。メモを取ると「手」も使う。集中力が鈍ります。そして「目」では、メモ帳の紙ではなく、客席と、外人本人の「目」を見ます。こうすると、たとえば彼が立て続けに5つのエピソードを話したとして、いちばん面白い部分がまず、通訳者自身の短期記憶に残ります。それ以外の部分はおのずと重要度の順番に色付けがなされます。その、自分が感じたままを、自分の口から出るにまかせて日本語にしてみると、原語を聞いた時まず自分が吹き出しそうになった箇所で、お客さんが笑ってくれているのです。そして、お客さんのだれか特定の人を選んで、その人の目を見ながら通訳してみると、その人が私の日本語に「飽きてきたな・・・」という瞬間があります。私の経験では、15〜20秒程度の時間でも、聞き手というのはかならずどこかで注意を緩めます。その瞬間を逃さず、潔く、口を閉じてしまうのです。このタイミングを外して長くしゃべりすぎると、どんなにきちんと内容を伝えていても、通訳された言葉そのものへの「好印象」は下がります。
これはいいことに気づいた、と思いました。具体的に言ってしまうと「訳し忘れ」「訳し残し」を恐れなくても大丈夫、ということです。
もちろん、どういう場面での、どういう内容の話か、ということによりますが、もし、2つの言語をまったくうりふたつの双子のように移しかえるのが通訳、と皆さんが考えているとしたら、それは「ひとつの通訳の方法」なだけなのです。
また、これとは反対に「言葉を補わなければならない通訳」という場合もありますしね。いろんな方向に発展させられる論点ですが、ま、これは「日記」なので、ここまでにしておきます。
ホテル・リッツ??? 相変わらずですよ、ヴァーチャル・トリップの成果(プリントアウトしたホテルリストや鉄道の時刻表そのほか)がすでにソファーの上に山積み・・・モトノモクアミ。明日は明日の風が吹く。