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ガットパルド(gattopardo)

通訳・翻訳者リレーブログ

最終回です。
来週から、火曜日の日記は新しい方が担当されます。
と、いうことで、なにか「最後」にふさわしい話題を選ぼうと思ったのですが、どうも、思いつきません。つくづく、発想にとぼしいアタマですよ。ああ。
このブログをどこのどういう方々が読んでくれているのかも、いまひとつわからないのですが、ともかく「通訳・翻訳の仕事に興味があり、年齢または、キャリアのどちらか、あるいは両方ともが、私より若いひとたち」にむけて、最後ぐらいまともなことを書いてみようと思います。
「ことば」を商売道具にして、どういう将来が見えるかというと、私の場合、はっきり言って「おのれの無知・無教養・感覚の鈍さ」への嫌悪感と反省と開き直りの日々、だけです。
もうちょっと若い頃には、それらしい「目標」を掲げていたこともあったけど、今では、ひとりの人間がどうあがいたところで、「ことば」を手玉に取ることなど到底無理、と思っている。外国語、日本語を問わず、己の口をついて発せられる単語、キーボードから画面上にはじき出される表現に、「うん、いいぞ。」と感じるものがたまにあったりはするけど、そんな喜びも時間とともに色あせ、何年か経って書き留めておいたものを読み返しても、まあ、感心しないよね。
学生時代に勉強していたころは、先人が残した言語の表現は、美的・意義的な価値があるもの、と信じて、なんでも吸収したいという欲求があったけれど。それからさらに年をとり、最近は不遜にも、世間である程度価値を認められているような作品にも、あらゆる観点からのあらゆる評価があって、ほんとうに自分にとって必要なもの・・・低俗な意味ではなく、ファンダメンタルに体がそれを欲して反応するような価値があるものは、それほどないのだ、という見解に至っている。
むしろ、世間の定評などとは遠くかけ離れた場所や、もののなかに、ある種の圧倒的な言葉のパワーを見たり聞いたりすることもある。それは嬉しい発見でもあり、また、一見多様化して彩り豊かになったようにみえる現代のあらゆる価値観の、じつは空疎な部分を突かれたような、己の浅はかさにも警鐘を鳴らされたような、ドキリとする瞬間でもある。
一応、肩書き「通訳」のガットパルドにとって、「言葉」とは、なにものか。
私にとって、言葉は、もはや、研究の対象でもなければ、商売道具でもない。
大切なともだちだ。
彼女をいじめる人がいれば、私は戦うだろう。
彼女をぞんざいに扱う人がいれば、私は怒る。
調子がいいのか、悪いのか、いつもお互いのことを近くで気にしている。
こちらが丁寧に扱わなかったら、この友だちは私に向かって毒も吐くし、イヤな思いもさせる。
案外気まぐれで、ぴったり寄り添うようにいるかと思えば、こちらが不安になるほど遠くに行ってしまったりもする。
彼女のことを美しいと評する人もいれば、まったく関心を寄せない人もいる。
古今東西の「詩人」と呼ばれる人たちは、この女ともだちとつき合うプロである。だから、すぐれた詩人には男が多いのかな。
私には、彼女と刺激的なつきあいをしたり、秀逸な関係を築くほどの才能はない。根性もない。ただ、死ぬまで律義に縁を切らずにおこう、と思うだけだ。
長くつき合えば、ともかく、関係そのものは深くなっていくだろう。夢のように楽しい瞬間も、長い間に、何回かは偶然、起こるかも知れない。けれど、それを当てにしているわけでもない。なんでつきあいがはじまったのか、今となってはもう、その理由すらもわからない。そして、友人とのつきあいは、そういうほうがきっと、うまくゆくのだろうから。
みなさんも、がんばってね。
それでは、1年3ヶ月前から結局ちっともきれいになっていないジャングルから、アリベデルチ!

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記事を書いた人

ガットパルド(gattopardo)

伊・仏・英語通翻訳、ナレーション、講師など、幅広い分野において活動中のパワフルウーマン。著書も多数。毎年バカンスはヨーロッパで!

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