辞書を編む 〜その4〜
(これまでの概要)20世紀最後の年、「使える辞書が欲しい」という思いだけを原動力に、現場の翻訳者や通訳者、すなわち「辞書作りの素人」たちによる『スペイン語経済ビジネス用語辞典』の制作が始まりました。出版のあてのない見切り発車でした。第1回会議の議事録では、「基礎的な経済用語と現代用語を網羅し、その用例を併記してスペイン語での概念を把握できるようにする。また良質な例文を載せて、その用語の実際の具体的な使われ方が分かるようにする」という目標が高らかに謳われていました。
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上記の目標、買う方としては大いに期待してしまう内容ですが、いざこれをすべて実現しようとすると、いったいどこから手を付けていいのか、最初はまさに五里霧中の状態でした。
わたしは辞書作りで食べている人ではないので、正確なところはよく分かりませんけれども、普通「○和辞典」を作る場合、日本でいう「国語辞典」にあたる「○語辞典」を元ネタにすることが多いようです。例えば小学館の「ランダムハウス英和大辞典」は、当然ながら Random House Dictionary of the English Language を基本とし、日本の読者向けに様々な情報が付け加えられています。
しかしそれは言語(語学)辞典の話であって、○○語の専門用語辞典となると、なかなか元ネタとなる本は見つかりません。もちろん存在はしますが、マクロ経済、貿易、財務、金融、経済”学”用語など、細かい専門分野に分かれていることが多く、なかなかわたしたちの目指すような総合的・網羅的な内容の本は見つかりません。さらにスペイン語の場合、公用語としている国が多いため、例えばスペインで出版されている本のみを元ネタにした場合、ラテンアメリカのスペイン語文を読みたい人には使い勝手の悪いものになります。
たぶん出版社に送ったものだったかと思いますが、わりと早い段階で作成した「辞書の特徴」には、こうあります。
「スペイン、ラテンアメリカを中心とした世界経済や日本経済についての記事を理解するのに必要十分な数量の経済用語を収録。(〜)この辞書は経済の各分野(マクロ・ミクロ経済、経済統合、国際貿易、国際投資、国際金融、開発援助、財務会計、流通・マーケティング等)の用語を網羅するとともに、情報技術(IT)や環境問題等の今日的なテーマを始め、政治、労働、国際協力等の広範な分野から基本語を収録した」
そんなに欲張らず、分野を絞ればいいのでは、あるいは何冊かに分ければいいのでは、という提案が出てきそうですが、英語と異なり、そういった専門用語辞典に対する需要が小さいことが大きな壁となります。あまり求められていないという意味ではなく、ニーズは高いが、実際に購入する人の絶対数が少ないということです。分野を絞れば、制作者にとっては作りやすく、ユーザーにとっては利便性が増すかもしれませんが、売上部数は当然減ることになります。趣味でやっているのではない以上、最低限度の部数が見込めなければ現実的ではありません。(もっとも実際に発売されるまでは全員手弁当だったのですが)
そこで、ある1冊の辞典を元ネタにするという方法は早い段階で諦め、複数の本や資料から小まめに集めていこう、ということになりました。
もともとは、「現場での使用に耐える、かゆいところに手の届く辞書」すなわち「My 単語帳」的発想から始まった辞書ですので、部数や採算や作業効率や、そういった要因が現実的な課題として立ちはだかるまでは、なんとなく「自分用に作っている単語帳の拡大版」みたいなイメージで捉えていた時期もありました。つまり、ネットや書籍から、あるいは普段の翻訳・通訳原稿から、「これぞ」と思うものをどんどん抜き出していき、ある程度の量を揃えれば形になるのではという、いかにも素人の発想です。
しかし、仮にも何千円もするものを買っていただくからには、当然ながらそんな「行き当たりばったりの寄せ集め」で済ませることはできず、どうしても核となる部分が必要となります。それでも、前述したように1冊に決めることはできず、複数の本から拾うことになりました。
この初期段階の作業は10年以上前のことですので、もう記憶もほとんど残っていないのですが、最終的に元ネタとして使用した書籍の数は、10冊を下らないのではないかと思います。しかも「パラパラ」見たわけではなく、集録されているすべての見出し語をA〜Z項まで(分野別辞書ならすべての項目について)目を通し、採用したいと感じたものを片っ端から拾っていった書籍の数、という意味です。単に参考にしただけの書籍まで含めたら、どれくらいの数になるやら、見当もつきません。また、インターネットのコンテンツが充実しつつあった時代ですから、書籍で網羅できていない新語については、ネット上の辞書も参考にしました。
このように基本方針を固めた後は、それぞれの書籍や資料について、A項目は○さん、B項目は○さん、この分野は○さん、といったように割り振り、期限を設けて、ひたすら作業に励みました。当然ながらAの語数は多く、Bは少なく、Eはとんでもなく多く・・押し付け合った記憶もあります(笑)。
余談ですが、分野別の担当で圧倒的に不人気だった金融・証券分野をなぜかわたしが(いやいや)担当することになってしまい、それはそれは苦労しました。でも、そのおかげでいま、金融・証券がわたしの専門分野になっているわけですから、運命とはわからないものです。
さて。
以上は主に「名詞」の専門用語の話ですが、我々の辞書では「経済の文脈で使用される形容詞と動詞」も掲載するという大胆な試みを実現しました。英語の翻訳をやっていても日々感じることですが、様々な品詞が組み合わさると、驚くほど多様な意味が生じますよね。
こんな言い回しはどの辞書にも載っていない。しかしどう見てもこの部分が文章の肝である。だがニュアンスさえ分からない・・・みたいなことが、よくあります。時には一つの言い回しの意味やニュアンスを求めてネットを泳ぎまわり、びっくり仰天な意味だったことが判明したときなどは、つい天を仰いで・・じゃなくて天井を仰いで、「ああ、ホコリが・・」とつぶやくハメに陥ります。
ホコリがあるのは我が家だけでしょうけども、ともかくそういった人々を救済するために、動詞と形容詞も載せよう(そして用例を充実させよう)というのが、これまたかなり早い段階からの決定事項でした。例えば、abastecer(供給する)、accionarial(株の、株式の)といった単語です。
動詞と形容詞まで載せている専門用語辞典は、実はほとんどありません。よって元ネタにできる経済辞典がなく、こうなったら西和辞典から小まめに拾おう!ということになりました。「小まめ」とはすなわち、A〜Z項目の全頁について、経済の文脈で使われそうな動詞と形容詞に加えて、専門用語辞典やネットからの拾い出しだけでは網羅できない、ごく基本的な名詞も拾う、ということです。
言語辞典の最初から最後まで目を通したことのある人は、ほとんどいないのではないでしょうか。当時の自分たちに「わざわざ苦労を背負い込まなくても・・」と言ってあげたいです、ハイ。
とはいえ、メインのメンバーがそれらをすべて行うことは時間的に不可能でしたので、この部分については、メインメンバーではないお二人に主にお願いしました。このお二人からすれば、「お願いしましたの一言で済ませるな!!」と言いたくなるくらい大変な作業だったろうと思います。新潟県のYさん、茨城県のTさん、お二人による基盤作りがなければ、この辞書の屋台骨はぐらぐら、内容はうすっぺらな物になってしまったでしょう。お二人には深く深く感謝しております。
基本的な単語の元ネタとしたのは、白水社から出版されている『現代スペイン語辞典』です(もちろん白水社さんから許可をいただきました)。
これで、ようやく辞書の「基盤」の部分ができあがりました。とはいえ、単に掲載する語をざっくりと揃えただけで、語義や説明などの内容はスカスカ。「凡例」をどうするか、同義語や反意語は、参考語はどうするかといった方針も決まっておらず、まだまだ人様にお見せできるような状態ではありません。それをどのように磨き上げていったのか、次回以降にお話ししたいと思います。
(つづく)
※字だけでは(わたしが)さみしいので、先日、回転寿司に行ったときの写真をば。北陸はカニのおいしい季節です(カニ汁約250円)。