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言論の自由

みなみ

通訳・翻訳者リレーブログ

 先週のブログでお話したPresentationは無事に終了。興味深い発見がいろいろとあって、あれこれ詰め込んで、長くなりすぎて、あちこち削って、なんとか指定の10分に収めて、無事に発表できました。あとは、カメラで撮った自分の発表の様子をチェックして、Critiqueを提出すればこの課題は完了です。
 今回は、翻訳理論の授業について。今週は「ジャーナリズムと翻訳」というテーマで授業がありました。Break明けから6週間の授業を担当するJonathanは、一見、おっとりとした穏やかそうな風貌に似合わず、かなり厳しい授業方針のようです。ほかのことをしている生徒がいると、すかさず注意。大学院にもなって、ちゃんと授業を聞かずになにをやっているの、と思いますが、ほかのことをやっていたり、居眠りしていたりする人も中にはいるんです。
 Jonathanの授業は、指定されたArticleを読んでいることが前提(これも本来、当然ですが)。まずそのArticleに基づいた設問のプリントが渡され、グループに分かれてDiscussionです。続いて、そのDiscussionに基づいて、クラス全体で意見を交わしながらまとめていきます。1時間したら数分の休憩のあと、さらに1時間、応用的な課題をグループで話し合っていきます。講義形式の受け身の授業よりずっと疲れますが、いろいろな意見を交わすことができるので刺激があります。
 今回、私のグループが受け持ったテーマは、ヒラリー・クリントンの自伝が中国で出版された後、中国の批判についての箇所の改ざんや削除が多かったために、アメリカの出版社が市場からの撤回を要請した、というケーススタディです。あれこれと意見を交わしているうちに、中国人の男の子が「そもそも、ニュージーランドでは、政府の批判をすることができるのか?」と質問しました。
 ほかのメンバーが「そりゃそうだよー」と答えると、「中国では、そんなことは絶対にできない、だから、この本の翻訳者が改ざんしてもやむを得ない。個人ではどうしようもないことなんだ」と彼は力説しました。「どうしようもない」と言われると、翻訳者の倫理とは、などということは言えません。さらに彼は、なにかの話の流れで、「天安門事件では死者は一人も出なかったのに、外国の報道機関が死者が多数出た、などというデマを流した」と言いだしたのです。
 え、天安門事件で死者ゼロ? 後でネットで調べましたが、たしかに事件当日、天安門広場での死者はゼロ、という発表を中国政府がした(らしい)とか、「天安門広場で虐殺があったというのはまぼろしだった」という記事を見つけました。真相は?
 さらに彼は、中国政府が開く記者会見で、外国人記者の質問が回答側の中国高官にそのまま伝えられることはない、と言っていました。通訳者は記者の批判的な質問を和らげて中国語に替えるそうです。なので、その回答は、記者が「質問に答えていないじゃないか」となるそうです。そんな記者会見をする意味があるのか、と私が聞いたら、「記者発表はしなくちゃいけないからするんだ」とのこと。
 頭では分かっていたけれど、中国の考え方、文化を目の当たりにした、という感じでした。
 メンバーを替えた次の話し合いは、それぞれ、先ほどのグループのケーススタディについて報告し合うというもの。私が先ほどの中国人の男の子の意見を紹介すると、今度はロシア人の女の子が「でも、そもそも、相手のことを自由に批判する、というのはよくないと思う」と発言。これに対して、ニュージーランド人の男性が「いや、いいんだよ。お互いに思ったことをぶつけ合うことが大切なんだよ。それが言論の自由なんだ」と説いたのですが、「いえ、それは違うわ。やっぱりすっかり自由というのはおかしいと思う」と彼女。うーん、確かに言論の自由と統制・検閲の問題は非常に難しいけれど、やっぱりこういう考え方はお国柄が出るなあ。と思いながら、2人の平行線のやりとりを聞いていました。
 ということで今回は、なんだか翻訳という範囲を超えて、文化的な違いを体感できる、本当に中身が濃い授業でした。

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記事を書いた人

みなみ

英日をメインとする翻訳者。2001年からニュージーランドで生活。家族は、夫(会社員)、娘(小学生)、ウサギ(ロップイヤー)。

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