日本滞在4週目
立命館大学で9、10日の2日間にわたって開催された国際会議、「日本における翻訳学の行方」を聴講してきました。日本の古典文学からアニメの翻訳まで、幅広いトピックが発表され、私は初日午前と2日目午後に参加しました。出席して知ったのですが、翻訳学に関する日本で初めての国際会議とのこと。
アカデミックな分野は、去年、大学のコースを終えて以来ご無沙汰だったので、はたして付いていけるかと、申し込んだものの、当日までちょっと不安かつおっくうでした。でも、結果として、参加してみてよかったです。その理由として挙げられるのは、まず、日本・世界で翻訳に取り組むさまざまな人に直接接することができたこと。世界中で翻訳・通訳に携わる日本人はもちろん、日本で学ぶ留学生も大勢来ていました。休憩時間に何気なく後ろを向いたら、「翻訳研究への招待」を編集されている水野 的先生が座っておられたので、思わず、「いつもブログを拝見しています!」とミーハー気分で声をかけてしまいました。
さらにこの会議で、翻訳理論という基盤を学ぶ大切さを実感することができました(遅まきながら・・・)。欧米の翻訳理論を学んで何になるんだろう、と昨年はずっと勉強しながら疑問に思っていたのですが、今回のさまざまな発表を拝聴して、「なるほど、共通の基本認識としてこういう理論を共有しているということは、実務・アカデミックを問わず、お互いの翻訳に関する考え・意見をスムーズに理解するために必要だな」と感じることができたのです(逆に、翻訳理論に関する知識がないなあ、と思われる方には、ちょっといらっとしてしまった・・・)。
また、このカンファレンスに参加して、さまざまな人の発表を拝見して、欧米文化が主流のニュージーランドでは得ることができなかったであろう、日本独自の視点に気づくことができました。去年、大学のコースを修了した時点では、もうアカデミックな環境はいいやーと思っていたのですが、私がもし修士論文を書くのだったら、広報業務の経験を生かして、ニュースリリースの日英比較、とかやってみたいな。などど、帰りの電車でちょっと妄想したりしてしまいました。
会議の中で私にとって特に興味深かったトピックは、翻訳ではなく、「コミュニティ通訳」でした。コミュニティ通訳とは、簡単にいうと、その地域で話されている言葉が理解できない人が日常生活上に必要な医療や教育、司法サービスにアクセスするために必要な通訳(ただし、「コミュニティ通訳」の定義そのものに諸説があるとのこと)。水野 真木子先生の説明に、「日本では、通訳というと、会議通訳がメインで、コミュニティ通訳という概念はまだ浸透していない」とあって、非常にびっくりしてしまいました。私が住んでいるニュージーランドでは、通訳といえば、まずはコミュニティ通訳です。移民や旅行者が英語話者と同じサービスをいかにして受けることができるようにするか、という点が非常に重視されています。たとえば、英語を理解できない旅行者や移民は病院で医療通訳者を使う権利があり、医療保険に入っていれば費用は保険でカバーされます。このような制度は当然ながら日本にもあるもの、と私は勝手に思っていました。ところが日本では、このシステムがまだ整っていないので、病院で医療通訳者を手配することが難しいそうなのです。また、裁判所での通訳も公的な資格認定制度がなく、口頭主義の裁判員裁判制度が導入された今後、通訳養成の制度確立や通訳の裁判における影響に関する調査などを実施していく必要があるとのことでした。
翻訳の分野では、Judy Wakabayashi先生のクロージング講演「日本における翻訳研究−より広い視点から」が、日本における翻訳学の問題点(例:Less academic)、取り組むべき課題(例:Development of degree programs)が明示されていて興味深かったです。Wakabayashi先生の論文は、昨年の大学の授業でアジアの動きを学ぶためのメイン資料として使われていたので、「生の」Judyさんを見た、という感じでなんだかうれしかったりしました。
最後に、同時通訳を担当された4人の方が壇上で紹介され、盛大な拍手を受けたことが、翻訳・通訳に関する会議を象徴しており、印象に残りました。一つだけ後悔しているのは、この方たちが担当された同時通訳の機材を借りなかったこと。申し込みの時点では、英語と日本語だったら通訳はいらないなあ、とあまり深く考えていませんでした。でも、よくよく考えれば、同時通訳の声を聞けるチャンスというのは、私にはあまりありません。今度、こんな機会があったら、ぜひ機材を借りて、通訳の方の仕事ぶりを体験させていただこう、と思ったのでした。