愛を売るのは汚くない?!
通訳業の醍醐味の一つは、“頭の良い人々”と仕事ができることだ。
自分の有する脳ミソのキャパシティーを超える場面に遭遇すると、意に反して自動的に心頭が滅却されてしまうこともあるが、頭の回転の早い人や人生を本気で生きている人々と仕事をすると、こちらの脳ミソも刺激され、時には抱えている悩みも解消されることがある。
以前一緒に仕事をした演出家は、そんな恐ろしく頭の良い人々の一人だった。
哲学者・社会学者の文言を台詞に多用し、ラジカルで前衛的、社会批判色が強い、という作品評を聞いていた私は、インテリ芸術家、革命的思想を有した演劇界の寵児、破壊的性格の理論家などなど、ほとんど偏見に近いようなイメージを持って彼の来日を待っていた。
当然、初日のミーティングには相当の覚悟を持って臨む。
ところが、開口一番、
『君もスタッフの一人だ。私の考えに異を唱える権利は君にもあるんだよ。』
と言う。仕事をしていくうちに、差別には極端に敏感で、実際の舞台上でのデモクラシー、演出家・役者・スタッフ間のヒエラルキー撤廃などを第一に考える演出家であることが明らかになるのだが、その時は『えっ…?!』と思った。
だって、通訳者たるもの、『それ、絶対にヘン!』と思っても、決して顔に出さず、まるで自分の意見であるがごとく訳せって、たしか通訳学校で習いましたもん。黒子に徹するのが通訳者、という常識からすると誠にありがたいご提案なのだが、学校で通訳者魂を叩き込まれた私はいささか面食らってしまった。
ましてや“演出家”が、である。
最初の言葉通り、稽古が始まってからも俳優陣はもとより、スタッフ、通訳者にまで、また幕が開けてからは観客に対しても“思考を共有する”ことを求める人で、彼の態度には最後までブレがなかった。
愛とお金と価値をテーマにした演出家自身の手による作品、1ヵ月半“思考を共有”した中で、ある言葉に私の意識がフォーカスされた。
『“愛”に“金”を払うのは汚いことだと思わない。』
と言うのである。
なんで?!
私を含め、俳優陣も黙り込む。
『例えば、芸術家の仕事は“愛”を売る仕事だ。全身全霊を傾けて愛情を注いだ作品に対して、受け取った側が評価して報酬を支払うのがなぜ汚い?』
う〜ん…
一緒に“思考”することを許されている私、『待てよ…』と思った。
“愛”を売って生活しているのは、なにも芸術家に限ったことではないのではないか?
通訳の仕事のために体調を管理したり、専門用語一つ探すのにご飯も食べずに血眼になって、睡眠時間を削って髪振り乱すのは、全身全霊を傾けていることではないか?
ということは、私たち通翻訳者も“愛”を売っていることにはならないか?
何故、演出家のこの言葉に反応したかというと、以前プルーフリーディングの仕事をしていた時に、愛の欠落した翻訳に沢山お目にかかった経験があるからだ。
ネットできちんと検索していないのは序の口で、誤訳・訳漏れあり、専門用語でも辞書には必ず載っている用語すら正しく訳されていない、明らかに一回目に訳したまま提出している、などなど、『自分で翻訳した方が早いわい!』と、当時の私は仕事の適当さに腹を立てたものだが、彼らだって決して無能で不真面目な翻訳者ではないはずだ。仕事が手抜きに見えるのは、つまり愛情が足りないのである。
ありがたいことに、現在、私の周りにいる同業者は皆、“愛”を売って仕事をしている人たちばかりだ。
“愛”を売る人々は仕事の仕方も情熱的で、そのハートは常に熱い。
職人は魂を込めてモノを創る。
受け取った側は愛情を込めてそれを使う。
通翻訳者もまたしかり。
(自戒も含め)