宇宙人
生まれて初めて“通訳者”という生き物を見た時、彼らが宇宙人に見えた。
その素晴らしい頭脳や技能に腰を抜かしたのは言うまでもない。
通訳学校に通い始めの頃、家に帰って自分の不甲斐なさを嘆くと同時に、様々な疑問が心に浮かんだのである。
この人たちは、喜怒哀楽を感じることはあるのだろうか?
お友達とおしゃべりしたり、テレビを見て笑ったりするのか?
私と同じものを食べて、美味しい、と感じるのだろうか?
お洋服や化粧品を買いに行ったりするのだろうか?
恋をしたことはあるのだろうか?
それまで私を取り囲んでいた人々とは、明らかに違う匂いがした。
当時の私には、通訳者のパフォーマンスの中に微妙に見え隠れする、彼らの心の動きや個性を嗅ぎ取るほどの感性がまだ備わっていなかったし、体質的にまだ、通訳者ならば面白くて仕方がないことを“苦行”としかとらえることができなかったのが理由である。
勉強すること以外に生き甲斐がないように見える生き物、一つの表現にこだわりを持ち、文末の処理の機微について延々とディスカッションをする、そのような“宇宙人”に取り囲まれ、『ああ、とんでもない世界に足を踏み入れてしまった…』と一人ため息をついていたものだ。
今でこそ、パフォーマンス改善のためのディスカッションならいつまでしていても飽きないし、見ること聞くこと何でも勉強に結び付けてしまう体質に変化しつつある。また、一見無機質にも見えるポーカーフェイスは、プロフェッショナルな姿勢の片鱗であることも叩き込まれた。実際、当時私が“宇宙人”視していた同業者とお食事に行ったり、お買い物に行ったりもするので、通訳者だってフツーに生活をしていることは良くわかるのだが、やはり我々はある種、無自覚に特殊な香りをまとわりつかせているのだろうか。
そのことを、先日、現在教えている通訳者の卵君の一人が証明してくれた。
マリコさんの第13回のコラム『接続詞のワナ』にもあるように、私もクラスでは接続詞によく注意を促している。
『日本語で‘しかし’や‘ですが’が出てきても簡単に‘aber(=but) ’と訳してはいけませんよ。その後の文脈とは関係なく、日本人はよく‘しかし’や‘ですが’を使うことがありますからね。
簡単な例を挙げれば、
「私○○と申す者ですが、△△様はいらっしゃいますか?」
という日常的な文の‘ですが’を安易に‘but’と訳してしまうと、
「私○○と申す者ですが、実は火星人だったんです。」
とでも言わないと不自然ですよね、この意味、わかりますか?』
額に汗しながら、ややもすれば雰囲気が固くなる授業で必死に笑いを取りに行った私に対して、ある生徒さんが真顔でこう答えた。
『でも、先生が“実は私は火星人だ”とおっしゃっても別に不思議とは思いません。』
ということは、私も立派に“宇宙人”の仲間入り?
喜んでよいのやら、憂慮すべき事実なのやら…