栗きんとんへの愛
明けましておめでとうございます。
みなさまにとって素晴らしい一年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。
本年も如是我聞・自問自答・愚考三昧の数々にお付き合いいただければ幸いです。
というわけで、新年早々過去を振り返るような話で恐縮だが、昨年は12月22日が仕事納めで、フリーランスになって初めて年末を思う存分満喫することができた。
大人になってから、どんなに忙しくても欠かさず行う年末行事がある。
㈰¥¥tクリスマスにケーキと骨付きチキンを食べること。
㈪¥¥t大掃除をすること。
㈫¥¥t黒豆と栗きんとんを作ること。
この他、ボストン・カメラータの『中世のクリスマス』とベートーベンの第九を聞く、海老天入りの年越しそばを食べる、なども恒例行事だが、この3つはどうしても外せない。一昨年は大晦日まで仕事が入っていたため、㈫の「黒豆」しか達成できなかった。神様はその時の無念さをよく覚えていてくださったのであろう、今年は3つの課題をすべてこなすことができた。こんな義務を自らに課してストレスや罪悪感を覚える必要などないのだが、幼少の頃から10代までに染み付いた記憶とは恐ろしいもので、3つすべて行わないと無事に年が明けた気がしない。㈰と㈪は子供の頃からの習慣でもあるが、特に大掃除はドイツ人の誰かがいつか『整理整頓は明確な思考をもたらす』と言っていたのを聞いてから、『これを怠ると頭が混乱したまま年を越してしまうのでは…』と、ほぼ強迫観念と化している。年が明けてから大掃除をしても、給食を時間内に食べ終わらずに昼休みになっても一人寂しく教室で食べているような気分と似ていて、一向に盛り上がらないのである。㈫の黒豆・栗きんとんに関しては完全なトラウマである。親戚中の子供の中で一番年上だった私は、大好きな栗きんとんがお重に入っていても、我先に手を出すことができなかったことから、『大人になったら自分で作って、鍋いっぱいの栗きんとんを食べてみたい』という夢を抱いてしまったのである。しかも、ある料理番組で料理家の先生が『きんとんはしゃもじですくったときに向こう側が透けて見えるほど、丁寧に練ってくださいね。この黄金色こそ、縁起がいいと昔から言われている所以なんですよ〜』と言っていたのが追い討ちをかけ、大人になったらあんなに甘いもの、おせち料理の中ではあまり喜ばれないのに、縁起物だから…ということで毎年鍋いっぱい作る。黒豆も今は亡き祖母が『喉と声に良い』と言っていたので、何の医学的根拠もないとは知りながら、やはり鍋いっぱい作る。頭にいい、体にいい、縁起が良い、などの言葉にはどうも弱いのだ。お陰で、黒豆と栗きんとんに関しては父親から、母親のよりも味が良い、との評価を得ているが、母は『あれだけの集中力と時間をかけて黒豆と栗きんとんだけ作っていればよいのなら、私でもできる。それは主婦の技にあらず、趣味の領域である。こっちはその他に準備することがいっぱいあるし、色んなものを作らなければならないのだから。』と豪語している。
ちなみに、余った栗きんとんはつぶしてトーストにつけて食べると芋ジャム風でとても美味しい。
今年も自他共に『きんとん色』に輝く年となりますように…