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詩人の夢をくれた先生

まめの木

通訳・翻訳者リレーブログ

子供の頃、詩人になりたかった。今はすっかり現実的になってしまって、ポエジーとはまったく縁のない生活をしているけれど、美しい言葉のリズムに触れると心の奥がざわっとなる。子供ごころに何故、こんな浮世離れした夢を持ったかというと、小学校の国語の授業で作文が上手に書けなかったからである。何を書いたらいいかわからず、またどう始めたらよいのかもわからず、他の生徒たちがさらさらと鉛筆の音を走らせているのを横に、真っ白な原稿用紙を前に泣きそうになっていたところを、担任の先生が「今見えるもの、聞こえるもの、感じるものを並べて書いてごらん」と言ってくれたのだ。そうして書いたものをその先生は「詩」と呼んでくれた。残念ながらその作品(?)は手元にないが、おそらく詩などと呼べる代物ではなかったはずなのに、「う〜ん、いい詩だね〜。君は作文じゃなくて詩でいいよ。」と褒めてくれた。それをきっかけに、なんでもかんでも単語レベルで並べれば詩になると信じ込み、書いたものを片っ端から親や友達に朗読しては、「将来は詩人になるの」と得意がっていたものだ。谷川俊太郎や宮沢賢治を教えてくれたのも、その先生である。
小学校2年生の時に担任だったこの先生は、私だけではなく、クラスの一人一人の個性を大切にして、その子の持つ能力を伸ばすにはどのようなアプローチがあるか、真剣に考えてくれる先生だった。教科書にかじりついて勉強するのではなく、理論と実践をバランス良く組み合わせてくれたので、生徒側もやる気に満ちていた。理科の授業では森に出かけ、みつけた植物や虫をスケッチし、名前や生態を調べるのが宿題。国語の時間はよく作文を書かされたし、朗読発表も多く、またグループで話を創作して紙芝居を作ったりもした。もちろん、紙芝居を作るのは図画の時間。そんな先生のクラスには当然、いじめはなかったし、できる子、できない子の差が実際あったにしても、個人個人に自分の個性を発揮できる場が用意されていたので、例えば算数や体育が不得意だからといってクラスの中で肩身の狭い思いをすることもなかった。
3年生になってしばらくして、学校でその先生の姿を見ることがなくなった。他の学校に移動した、という話も伝わってこなかったので、元生徒は皆、「どこに行っちゃったんだろう?」と少し心配していた。あとから聞いた話では、当時、受験戦争の嵐はまだ小学校レベルまでは達していなかったものの、学力低下を危惧する父兄の声があったそうである。しかし、その先生のやり方で自分の学力が低下した、と感じる生徒は一人もいなかったはずだ。また、昨今話題になっていた本末転倒の「ゆとり教育」ではなく、生徒の個性に主眼を置いて「心の教育」をしてくれた先生だったのに…。
少なくとも、文章を書くことにコンプレックスを持っていた一人の少女を救ってくれたことだけは確かである。

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記事を書いた人

まめの木

ドイツ留学後、紆余曲折を経て通翻訳者に。仕事はエンターテインメント・芸術分野から自動車・機械系までと幅広い。色々なものになりたかった、という幼少期の夢を通訳者という仕事を通じてひそかに果たしている。取柄は元気と笑顔。

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