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ヘッドフォーン族に喝!

まめの木

通訳・翻訳者リレーブログ

小さい頃から変なところに神経質だった私は、よく母親から『あんたは大人になったら鬼千匹になる。』と言われた。“おにせんびき”って何だろう?と子供心に疑問を感じながらも、鬼、というからにはおっかない存在を意味していることは確かなんだろうと思っていた。後で調べてみると、『嫁に小姑、鬼千匹』といって、お嫁さんに意地悪する口やかましい小姑を意味するらしいが、意味を知ってからというもの、私は一人っ子なので、たとえ私が意地悪であったとしても、うちにお嫁さんは来ないではないか、と小理屈を並べたくなる。閑話休題。とにかく、母親本人はこの言葉の意味をあまり深く考えずに発言したのだろうが、小さい頃からくだらないことで腹を立てることが多かったのは確かである。というわけで、今回も公共マナーに喝を入れる話である。

昔から信じられないのは、歩きながらヘッドフォーンで音楽を聞いている人たちである。単に迷惑だ、うるさいから、という理由ではない。騒音の点から言えば、電車の中でシャカシャカ音を立てて音楽を聞くほうがよっぽど迷惑行為なのだが、聴覚を街の雑踏から遮断して路上を闊歩するのは、大げさに言えば、人命にかかわるほど危険極まりない行為なのである。歩く、という行為はそもそも、目だけ開けて前を見ていれば安全というわけではない。私は何もないところでも転ぶ癖があるため、歩くという行為に対して人一倍神経質になるのかもしれないが、私たちは、視覚からだけではなく、聴覚によっても前後左右の人と物の動きをキャッチしているのだ。だから、ヘッドフォーンをつけていると、後ろから歩いて来る人の気配を感じることができない。これが人の少ない郊外の道や公園だったら、そう深刻な問題ではないが、混雑した路上やラッシュアワーの駅の階段などでは、自分の周囲の気配に鈍感になることで他の歩行者の迷惑にもなるし、感覚が鈍くなって意識散漫になると、事故につながる危険性も高い。また、こういった場所で万一、転んだ場合などは、自分が怪我をするだけではなく、他人まで将棋倒しになる可能性だってあるのだ。そこに、杖をついた人がいたらどうなるだろう。車椅子の人に気づかなかったらどうだろう。子供がいたら…。
このようにガミガミ言っているが、なにもヘッドフォーン禁止令を出すべし!!と力んでいるわけではない。好きな場所で音楽を聞けたり、家の外でも語学を習得できたり、と、ヘッドフォーンに絶大な効能があるのは認めている。しかし、昔の武士のように、背中で気配を感じる感覚も、何が起こるかわからない世の中だからこそ、必要なのではないか。歩く、という当たり前の行為に対して、現代人はもっと神経を使うべき!!と、“鬼千匹”は思ってしまうのだ。

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まめの木

ドイツ留学後、紆余曲折を経て通翻訳者に。仕事はエンターテインメント・芸術分野から自動車・機械系までと幅広い。色々なものになりたかった、という幼少期の夢を通訳者という仕事を通じてひそかに果たしている。取柄は元気と笑顔。

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