人生の宝
ずっと書きたい言葉があった。落ち込んだときにとても励みになるし、通翻訳者を目指して日夜努力している方々も、これを聞けばきっと元気になるだろう。大正15年に起きた十勝岳大爆発による泥流の惨害をテーマにした三浦綾子氏の作品、『泥流地帯』に出てくる石村拓一の言葉である。泥流のせいで硫黄分を含む不毛の地となってしまった田畑を復興させようと頑張っている拓一に対して、周囲は反対者も賛同者もそろって懐疑的な目を向け、「こんな無駄なことに時間を費やすのはバカだ、米なんか一粒だって実るようになるもんか」、「何の報いもない難儀をしてどうする、いっそのこと旭川に出て働いた方がいい」と助言する。
「三年経って、もし実らないとわかったら、その時は俺も諦める。すると人は言うだろう。その三年の苦労は水の泡だったってな」
「そりゃあそう言うさ」
「しかし、俺はね、自分の人生に、何の報いもない難儀な三年間を持つということはね、これは大した宝かもしれんと思っている」
「宝?」
「うん、宝だ。たとい米一粒実らなくてもな。それを覚悟の上で苦労する。これは誰も俺から奪えない宝なんだよ。わかるか、国ちゃん」
何の報いもない難儀な時間の真っ只中でこんなことがさらりと言える人間て、いるだろうか?私だったらさっさと諦めて、新天地を求めて別の街に行ってしまうかもしれない。
通訳の勉強をしながら仕事を探していた頃、「頑張っていればなんとかなるさ」を信条としている楽天家の私でも、時には「今から通訳者を目指すなんて、妄想狂かバカかもしれない」と落ち込むことがあった。それでも、とにかく何もしないでいるよりは、単語の一つでも覚えて、一歩でも進んだ方が将来のためだと考えていた。『泥流地帯』はずっと最近になってから読んだので、もちろん当時はこんな素晴らしい人生哲学を持っていなかったから、どちらかといえば、「なれなかったらどうしよう」という不安を紛らすために、がむしゃらにエネルギーを発散させていたのかもしれない。決して要領がいいわけではないが、今でも、仕事の準備をしているときにこの傾向が出ることがある。通訳学校で教えているクラスで、「勉強の仕方がわからない」、「効率良く技術を身につけるにはどうしたらよいか」と質問を受けることがあったが、いつも言うのは、乱暴なようだが「そんなこと考えるのは、暇だから」で、「切羽詰っておらず、まだまだ余裕があるから」なのである。効率良く勉強する方法もあるのかもしれないけれど、やっぱり、目の前にある土を一掬いずつでも耕していかなければ、黄金の稲の実る美田は実現しないのではないだろうか。
さらに拓一は言う。
「実りのある苦労なら、誰でもするさ。しかし、全く何の見返りもないと知って、苦労の多い道を歩いてみるのも、俺たち若い者のひとつの生き方ではないのか。自分の人生に、そんな三年間があったって、いいじゃないか。俺はね、はじめからそう思ってるんだ」
今、この瞬間を思い上がらず真正面から生きれば、結果が出ようと出まいと、人生の宝になる。ということは、すでに報われているのだ。素晴らしいことではないか!!