なけりゃ作ればいい
子供の頃、両親の趣味だったのか、家の教育方針だったのか、とにかく“今の流行りモノ”と称するものは一切買ってもらえなかった。どうしてうちは買ってもらえないんだろう、もしかしてお友達のおうちより貧しいから買えないのかしら…等々、子供心に“持てる人”をうらやましく思ったものだが、今思い返してみると、貧しいなんてとんでもない、既製のもので済ませたほうがどんなに安上がりで手間がかからなかったことか、と感謝の気持ちが湧く。子供服一枚を作るにしても、わざわざ外国製の布ばかり扱う生地問屋さんから布を調達して、母親が何日もかけて縫ってくれたし、リカちゃんハウスは買ってもらえなかったけれど、父親が竹ひごやベニヤ板を切ったり貼ったりして手作りしたもので遊ぶのが普通だった。まことに贅沢な育てられ方である。ただ、今でこそ笑い話になっているが、カルピスさえ飲ませてくれないほど食品にも極端に敏感だった母親に、『フルーチェが食べたい』と言ったら、なにやら赤い木の実を酢に漬け込んだものを牛乳で割ってハチミツを加え、『ほ〜ら、フルーチェみたいでしょ〜♪』と出されたときには、涙が出そうになった。子供の感覚とは恐ろしいもので、子供の私には手作りならではの価値と愛情がまったく理解できなかったのである。なぜなら…
『地味でかわいくないし。。。おいしくないんだもん。。。』
そう、ハリウッド黄金時代の映画で乙女時代を過ごしてきた母の趣味よりも、流行りのキャラクターがプリントしてあるTシャツや、フリフリの沢山入ったピンクのワンピースを着て、どぎつい赤やグリーンで染められた香料たっぷりのゼリーを食べてみたかったのである。服に関しては、学校で“浮く”のが一番恥ずかしかったが、一方でそんな“手作り家族”を喝采してくれる友達もいた。往々にして男子生徒である。ゲイラカイトが一世風靡した時代に、父親が『俺の作る凧は世界一高く上がるのだ』と、ライト兄弟が初飛行で乗った飛行機のような、凧の常識を超えたものすごい作品を作り上げた。女の子の私にはあまり嬉しくなかったけれど、普通の凧糸では間に合わず、釣り竿に釣り糸で見えなくなるほど空高く凧を飛ばした父親を得意に感じたものである。
そういった環境もあってか、歳とともに、なければ、というよりは『買ってもらえなければ自分で似たようなものを作ればいい』という哲学(?)を持つようになった。キャラクターグッズが欲しければ、菓子箱に下地が見えなくなるまで白い紙を何重にも貼り付けて、そっくりに絵を描いて色を塗り、またまた何重にも丁寧にニスを塗る。出来上がったものを学校に持っていけば、皆もうらやむお道具箱である。また、半端な布やレースなら家に山ほどあったので、見よう見まねでお人形さんの服を作ったりもした。
『ないが故の知恵』が役に立つと感じ始めたのは中学生になってからである。当時、英語を習い始めたらJポップよりも洋楽よ!という風潮が一部にあり、ご他聞にもれず私もビートルズから洋楽に入門した。中学生の私には音楽のメッセージ性や芸術性なんかどうでもよく、あくまでもミーハー的ファンだったので、もちろんグッズも揃えたい。しかし、その頃は今ほどいわゆる“外タレ”グッズがたやすく手に入る時代ではなかった。今の時代ならゴミ同然に見える代物かもしれないが、レコードジャケットを白黒コピーしてノートや箱に貼り付け、おしゃれっぽく英字新聞で縁取りしたりして(これは当時の感覚です)、やはり学校で友達に見せたら、『ポール様で私にも作って〜〜〜』と注文を受けるほどだった。高校時代、セサミストリートグッズもあまり見かけなかった頃に作ったペンダントトップは今でも大切にとってある。樹脂粘土で作ったものだ。バートはさすがに時間がかかったが、クッキーモンスター、ビッグバード、オスカーはわりと簡単にできたので、欲しいと言う友達にプレゼントすると『あなた天才!職業考えたら?』とかなりご好評をいただいた。う〜ん、今見ても、かなり良い出来ばえである。職を間違えたか?!いやいや、プロだったら多少のことでは通用しない。趣味だからこそ楽しめるのだろう。しかし、何でも手に入る今の時代に、『欲しかったら自分で作る』という感覚を持てるように育ててくれた両親には、感謝!感謝!である。
バートは約4cm!写真はほぼ実物大です。
Weihnachtskrippe と呼ばれるクリスマスの飾り物で、キリストの誕生と東方の賢者たち。留学時代に作ったもので、最大約6cm。