BLOG&NEWS
彫刻とワインと文章の深い関係
小説や絵画や写真などに触れるたび、その中にある”音の気配”に、いつも耳傾けてしまいます。”音のあるアート”に、強く魅かれるのです。そこに更に、色彩や光や風や薫りが舞っていると、もう決定的。その作品&それを生み出した表現者に、心底惚れ込んでしまいます。
読み辛い文章とは、どうしてこうも読み辛いのだろう。逆に優れた文章とは、どういうものなのだろう…。色々と考えさせられる、今日この頃であります。
読むのが自分ひとり、例えば日記のようなものであれば、どんな文章だって構わない。友達同士のメールなら、どんなに読み辛い文章でも問題ない。そんなところで力む必要などない。でもプロの物書きである以上、生半可な姿勢で、生温い文章を書くことは許されない。お金を出し読んで貰う人達がいることを、忘れて欲しくはない。
プロが文章を書くのは、伝えたいことがあるから。それを読み手に伝えるのが、最大の目的なわけで。そうでなければ、何の為に書いているのやら。
伝えたいことを、その思いを、読み手に親切な文章で。客観的に、思い込みを捨て、自分の能力を過信せず。入稿時、どんなに完璧だと思った文章でも、時が経つにつれ、アラも見えてくるし、色褪せてもくる。ああ書けば良かった、こう書けば良かったと。完璧だと思っていた文章でさえ、悲しいかな、そういうもの。だからこそ最低でも、その完璧を目指さなければならない。
“の”は、一文に2つまで。
“思う””考える””感じる”は、なるべく使わない。
“○○さんは””わたしは”、”だった””でした”を連呼しない。
“悲しい”ことを伝えたいのなら、”悲しい”と記すのではなく、その思いを言葉で表現すること。プロとして、基本中の基本。
何がどうした。誰が何処で何をした。何処で何がどう起こった。それはどんな風に凄いのか。句読点をしっかり付けて、ひとつの文章にひとつの情報を。そういう感覚で、あまり欲張らず、盛り込み過ぎないよう。余計な飾りは要らない。
誰が何処で何をした。もっとも伝えたいのは、どの部分なのか。静と動、踊っていたり佇んでいたり。強弱、イントネーション、アクセントのはっきりした、リズミカルな文章を。
例えば絵画の話なら、その絵画が目に浮かぶような表現を。絵画展の批評なら、”そこへ行きたい””この目で見てみたい”…そう思わせるような文章でないと。
書いては直し、書いては直す。掘って掘って、掘り下げて。そうやって大事な箇所、核となる部分だけを残す。そうして伝えたいことを明確にしていく。その作業過程で、自分の伝えたいことも分かってくる。
完成した文章を、一度声を出し読んでみるといい。その時につかえるようだったら、どこかに問題があるということ。もっと掘って磨かなければならない部分が、まだまだある証拠。昔よく言われたことを思い出します。
シンプルでストレートな文章が一番。そんな文章であればあるほど、逆に時間をかけ、ひとつひとつの言葉を丁寧に選び取り、紡いだものだったりするものです。
難しい内容を簡単に。分かり易い文章をより分かり易く。伝えたいことをはっきりと。でもそれは、何を読み手に伝えたいのか、自分で分かっていない限り、不可能なこと。だから自分がそこで何を伝えたいのか、まずは考えなければ、何も始まらない。
いったん書き上げた文章からは、いったん離れるのが理想的。できれば一晩寝かせたい。そうして翌日、再び向かい合ってみる。すると不思議と、完璧だと思っていたものでも、”なぜこれで納得してしまったのだろう”と情けなくなるほど、完璧ではないことに気づくものです。それでまた削いだり足したり、言葉を入れ替え、句読点の位置を変えてみる。同じことの繰り返し。ひたすら文章のおそうじ。
文章を書くのは、彫刻に似ている。どんなに立派な丸太でも、どんどん掘り出し、新たなる命を吹き込み、自分の声や想いを体現したものを、その中に見出さない限り、丸太は生かされず、ひとのこころに響く作品は、生まれない。
ワインにも似ている。時間をかけ、大事に育てていくと、熟成し味に深みが増す。”このくらいでいいか”と気を抜き妥協し、手放してしまったら、それでおしまい。味気ない、つまらないものになってしまう。
どんどん磨かれ熟されていく内に、文章はみるみる、よくなっていく。細部にまで、神経のゆき届いた文章は、それだけ立ってくる。
そうしてそこに、音の気配が…。色彩や光や風や香りが、舞い始める。
そうして初めて、惹きつけられるのです。
いまこうして書きながら、雑誌を作っていた頃、編集長や上司に、繰り返し言われた言葉の数々を、ゆっくり思い出しています。原稿用紙を真っ赤かにされ、投げ返されては、げんなりしていた、懐かしい編集部時代のことを。でも当時教わったことの、そのひとつひとつが、いまでは自分の宝物になっています。深く感謝。
あれから眩暈がするほどの歳月が流れ、その間に無数の文章を、懸命に書いてきました。それでも”もうこれ以上のものは書けない”と思えるような文章が書けたことは、まだ一度もありません。しかしそう思えたら、あとはもう引退するしかないのでしょうし、まだまだ引退する気など更々なく。だから”これでいいのだ!”と思うことにしています。方々に迷惑をかけながら。それにだって、小学校4年時まで、日本語の読み書きが出来なかったことを考えると、まあ上々の展開なンでないか?……などと甘々なこと、思ってはいけませぬ…(^_^;)
ああ、それこそ、伝えたいことが分からなくなりそうですが……
駄目な日本文に良い翻訳文をつけるのは、翻訳者がどう頑張っても不可能なこと。どう逆立ちしても限界がある。歯ぎしり。しかし翻訳者とは、そのような立ち位置にいる者。そういう職業なのですよね。
その世界で輝いているプロ達は、みんな生半可ではない集中力と、命を削るような姿勢で、その対象物と向き合っています。
それぞれの居場所で、それぞれのやるべきことに対し、命がけで、ギリギリのところで、取り組んで欲しいものです。”プロ”であるのならば…。