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ここは何処? あたしは誰?

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通訳・翻訳者リレーブログ

先週の続きです。

カナダでの素敵な日々を過ごした後、小3の終わりに帰国した私ですが、何せ日本語は全く話せず、日本についての知識と言ったら、どこかで聞いた“犬のような形をした島国”ということだけ。なのにいきなり“国へ帰ろう”って言われたって、あーた、私にとっての“国”って、カナダなわけだから、そりゃないよ。従って“アタイだけ、ここに留まる!”…とのたまってみたりもしたのです、が、そう言う訳にもいかず…で、結局家族全員で帰国。でも、羽田空港(成田はまだまだ先の話ね)に出迎えに来ていた祖父母とは、会話が成立せず、で、差し出されたサイダーを無言で飲み干し、ガムを無言で噛み続け、ひたすらニコニコするのが精一杯。

で、肝心の教育問題。学校側からは、“1年生からやり直して欲しい”との強い要望があった…らしいのですが、何とか無事3年生に押し込まれます(3学期…ね)。母の頑張りが利いたのでR。
で、まず驚いたのが、使うものが何でもかんでも決まっていたこと。上履きに体育館履きに体育着に水着に給食袋に絵具セットに習字道具に……。それから筆箱と鉛筆と消しゴムは、こういうものが良い…とか、下敷きはこれが無難…とか(って、その“無難”って、どういう意味だっ?? だいたい“下敷き”って何だっ?!)エトセトラ・エトセトラ……。あぁあ〜〜!!

不思議な国ニッポン。

何かと言うと、すぐ体育館や校庭に集合し、先生の話を聞いたり、話し合いしたりするし…ね。そんなこと、それまで経験したことがなかったから、あたしゃ口あんぐり。あっ、そうそう、そういう時に、胡坐かいていたら、先生が素っ飛んできて、血相変えて何か喚いてる…んだけど、でも、なに言ってるんだか分からない…んだけど、たぶんこの座り方、日本ではダメなんだろうな…ってことくらいは、何となく理解できた…なーんて瞬間も、ありましたっけ。
それから、“前へならえ”“右へならえ”“これしちゃいけない”“あれしちゃいけない”。水泳の授業では、OOメートル泳いだら、線がOO本入ったOO色の帽子に“昇格”…とか…で、あぁ〜もう〜、“ここは軍隊、で、あたしゃ兵隊??”
だってそれまでは、比べない、競わせない、命令しない、良いところ褒める、自主性重んじる…。そんな日々にドップリ浸かっていましたから、ねぇ……。

それはもう、バリバリのカルチャー・ショック……ですよ。

そうして、何よりも言葉の問題! みんなが“国語”をやっている時に、教室の片隅でひとり、絵本を見ながら、“いぬ”とか“ねこ”って、ひらがなのお勉強。そうそう、“おおきいひと”と書いたら、“すもうとり”…と訂正されたこともありましたっけ(…ってそんなこと、いきなり分かるわけないじゃないですか!)。
日記も書かされましたね。毎日、欠かさず。“きょうはうちのいぬとさんぽしました。たのしかったです”…とか、まぁそういう、何でもない、単純なお話オンパレードでしたが。でもいま思うと、これが凄く良かったのだと思います。このお陰で、日本語がみるみる上達していきましたもん。いまでも大切に保管してあるんですよ。30冊は軽くあるかな。書いていたあの当時から、一度も開いていませんが。でも将来、気が向いたら、読み返そうかと思っています。楽しみ。

で、とにかく、とにかく、子供って凄いですね! まるでスポンジみたいなもの……って自分で言うのもナンですが…。とにかく、新しいものを吸収する力&早さは、それはもう半端ではなく、気が付いたら…1年もしない内に、日本語が普通に話せ、日本の日常生活にも、しっかり馴染んでいましたから。と同時に、英語もすっぽり忘れていきました。数年後、南米のアメリカン・スクールへ編入学した時、英語がジャバジャバ溢れ出てきたのには、我ながら驚きましたが。身体のどこか奥深くに、残っているものなのですね。人間って不思議。って、あっ、南米の話はまた別の機会に。と〜っても強烈な3年間だったので、体調がバリバリに良い時にでも、改めて…。

で、そう、小学校の途中まで、日本語を話せなかった人間が、いまでは原稿を書く仕事に就いているのですから、人生って、ほんと、どこでどーなるか、分からんもんです。あぁ、楽しいな。ははは。

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高校までをカナダと南米で過ごす。現在は、言葉を使いながら音楽や芸術家の魅力を世に広める作業に従事。好物:旅、瞑想、東野圭吾、Jデップ、メインクーン、チェリー・パイ+バニラ・アイス。

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