東野圭吾と原作と映画とテレビドラマ
私は東野圭吾氏の作品が無性に好きです。
日本でNO.1のエンタテインメント作家、ストーリーテラーだと、惚れ込んでいます。
その作品は皆、非常に映像的。読んでいて、場面場面が鮮やかに脳裏に浮かんできます。そう、読んでいる間は、勝手に“ひとり映画館”に浸っているような感覚です。
登場人物の心の動き、心の襞の描写も、唸るほどに絶妙。
そうして何と言っても、あの読後感。その辺の小説家が書いたら、単に“後味の悪いグロテスクな小説”で終わってしまうようなものでも、彼の腕にかかると、何とも形容しがたい、哀しくも切なく、冷酷だけれど温かく、スケールが大きいのに繊細。とても甘美な物語になります。それはどの作品、どのミステリーやサスペンス仕立ての物語にも、共通して感じられるもの。独特の世界、ザッツ東野ワールド。
こういう言い方をすると、ちょっと誤解されるかも知れませんが、でも、“あー、日本人に生まれて良かったー!”…と叫んでしまいたくなるような。外来物にはない、独特の世界観があります。
特に好きなのが『白夜行』。
接する場面も殆どなければ、相手に対する思いを語るわけでもない、主人公のふたり。それでも、遠く離れていながらも、強く太い絆で繋がっていて、その変わらぬ深い想いが、全編を通して、底辺に静かに流れています。設定は突飛かも知れませんが、でもこれぞ、究極の関係。ある意味、とても理想的。非常に強くてカッコいい。これを単純なラブストーリーにしなかったのが、また、この東野圭吾という小説家の素敵なところ。
500ページを超える大作(文庫版は約800ページ)ですが、初めて開いた時は、それこそ日付が変わり、空が白むのに気づかぬまま、一気に読んでしまいました。その後も幾度か読み返しては、同じような思いで本を閉じ、同じようにしばらく放心状態になったほどー。
2006年には、テレビドラマ化されましたが、あまりに思い入れがあった為、一度も観ず仕舞い。
そうして現在、『容疑者Xの献身』(これで漸く直木賞を受賞!)が劇場公開中。とても評判が良いようですが、こちらもまだ観ていません。
それから『流星の絆』のテレビドラマ版も、先週から始まりました。
そう、『放課後』(1986年)、『秘密』(1999)、『宿命』(2004年)、『変身』(2005)などなど、東野作品の数多くが、映画化・テレビドラマ化されています。
でも、その殆どは観ていません。自分の中で思い描いている、映像イメージを壊したくないと言う、読者にありがちな我儘な考えからですが…。
あっ、でも『手紙』(2006年)は観ました。
“100人が読めば100通りの映像世界が存在するだろう”…という東野作品の中でも、これは比較的“みんな同じようなイメージをもつ作品ではないか”…と感じていたので。つまり、“これなら、まぁ、安心して観られるか”…と。
実際、とても気持ち良く映画館を後にすることが出来ました。キャスティングも皆ぴったりでしたし、設定変更も納得いくようなものでした。
それにしても、小説の映像化は、なかなかに難しい。
例えばです。
愛してやまないエミリー・ブロンテ作『嵐が丘(原作:WUTHERING HEIGHTS)』。何度か映画化されています。
最も古いのが、1939年のウィリアム・ワイラー監督作。あれはとにかく凄まじかった。
原作に一番忠実だと感じたのは、1992年作。レイフ・ファインズのヒースクリフは絶品でしたし、ジュリエット・ビノシュのキャサリンも、悪くはなかったと思います。それから坂本龍一氏の音楽。あれには鳥肌が立ちました。
でも、メキシコで制作された1953年版は、いったい何だったのだろう。舞台を、灼熱のメキシコ砂漠に移すとは、どう考えても酷過ぎます。あれは、ヒース生い茂る、荒涼としたヨークシャーだからこそ、生きてくる物語なのですから。
同じ英文学で思い出すのは、『テス(原作:TESS DURBEYFIELD)』(1979年)。
あの映画版は、心底堪能できました。監督ロマン・ポランスキー、それから主演女優ナスターシャ・キンスキーの代表作と言っても良いのでは。非常に美しい映像作品だったと思います。そう感じられたのも、或いはトーマス・ハーディの原作に、それほどまでの深い思い入れが、なかったからなのかも知れません。
最近の作品では、『死神の精度』(2008年)。原作は伊坂幸太郎氏。“あの独特の‘軽さ’‘突飛さ加減’が出せるのだろうか。いや、出し難いだろうな”…などと思いながら、映画館に行ったのですが、案の定、うーん、ちょっと無理がありましたね(でもそれは決して、金城武のせいではありません!)。
閑話休題。
さて、先に書いた東野圭吾作『流星の絆』のテレビドラマ版です。
脚本は、これまた私の大好きなクドカンこと宮藤官九郎氏。映画『GO』(2001年)、『ピンポン』(2002年)、テレビドラマ『木更津キャッツアイ』(2002年。2003年&2006年には映画化)、『池袋ウエストゲートパーク』(2000年&2003年)、『ぼくの魔法使い』(2003年)などで知られる脚本家、放送作家、映画監督、俳優、バンドマン。あっ、週刊文春のコラムも、最高に面白い。
でも彼の良さは、あのコメディ・タッチのドライさ加減。一方の東野圭吾作品は、限りなくウェットで切ない。そんな対極とも言えるような世界が、合体して、どんなものが出来るのだろう。いや、それ以前に、そんな世界を合体させて、本当に大丈夫なのだろうか。正直言って、期待半分不安半分。いや、期待よりも不安の方が…。
そうして先週の第一話。
う〜〜ん、クドカン・ワールドに押され気味の東野氏。はっきり言って、そうとう辛い。“軽さ”“分かり易さ”“面白さ”が求められる、昨今のテレビドラマゆえ、考え抜かれたコンビなのか…。だけど、もっと個性の強くない脚本家に担当して貰って、東野色を全面に出したのでは、駄目だったのでしょうか。素朴な疑問。
まぁ、原作を読まずに観ていたら、それほどまでの抵抗感もなく、単純に楽しめたのかも知れませんが…。でもこれ、なんたって東野圭吾さまの作品ですからねぇ!
あ〜〜、悲しい。
まぁ、最終回まで観てから、また改めて語ることにしましょう。
原作と映像は、まるで別物。はい、それは重々承知していますし、そう思いながら、客観的に観れば良いのです。分かっています、分かっています。でも、原作が好きであればあるほど、そう冷静に観ることなど、なかなか出来ませぬ〜。
小説の映像化。うーん、やはりなかなかに難しい……。