魅力的な文章とは…
“文章書きもインタビュアーも、10年やって、それでやっとスタートラインに立てたと思え”。
これ、20代の頃、フリーランサーになるまでの約7年間、携わっていた音楽雑誌の編集長に言われ、強く印象に残っている御言葉。
“10年は長いなぁ。意味分からないよなぁ”。
当時はそんな風に思いながら、ちょっとウンザリしていたものですが、でも実際にはその10年は、あっという間に過ぎゆき、そうして、そこへ辿り着いた時に、編集長の言わんとしていたことが、良く理解できたのでした。
それから更に10年以上が経つわけで、つまりスタートラインからは、少しばかり前へ進めているわけで、その実感も確かにあります。ありますが、でもそれでも、自分が100%納得できるような仕事なんぞ、いまだにこなしていないのが現状です。
特に物書きとして、納得のいく良い文章は、まだまだ書けていません……。
そもそも、“良い文章”とは、どういうものを言うのでしょう。
それは、自分のいる世界、そうして読み手によりけりでしょうし、だいたい優れているもの&そうでないものという次元以外に、いや、それ以上に、自分の感性に合ったもの&合わないものがあるでしょう。確かに凄い文章なのだろうけれど、どうも自分とは相性が悪い、なぜか心に響かない…という文章も多々あると思います。
ですから、“良い文章とは?”と言う問いに対する答えは、ひとつではないでしょう。それでも、私がこの編集長を通して学んだことは、幾つかあります。
まずは、“難解な内容を、出来るだけ簡単に、より簡素にシンプルに伝えること。そうしてシンプルな文章を、また更によりシンプルな文章にすること”。
これまた、耳にタコが出来るほど、よく言われましたっけ。
つまり、10行を5行で、5行を3行で綴ったもの。逆に、5行で済むことを、10行で書かれたものは、けっして良い文章とは言えないと言うこと。シンプルで簡潔で短い言葉を使いながら、シンプルで簡潔で短い文章を紡ぎ出すことが、とても大事なのだと思います。
短くシンプルに。その上、その間々にそれ以外のものを、はめ込みつつ、アクセントをつけつつ、リズムを大切に。
だらだらと理屈を並べ立てていては、読み手を退屈させるだけ。書き手の自己満足の域を出ません。
それから、読後の余韻を感じさせる文章。読み手に考える余裕を与えてくれる文章。そう、ちょうど“会話”と似ていますよね。一方的に話し、自分の意見をぶちまけ、“さぁ、どうだ!”というのは、絶対に避けたいもの。受け手を想像し、その相手に思いを馳せながら。
掛け出しの頃は、とかく自己主張したくなりますし、“一見”難解そうな単語を羅列し、“一見”難解そうな文章を書いている自分を“凄い!”と、うっとりすることもあるでしょう。20-30代の頃には良くあること。しかしそれは、けっして良い文章とは言えないと思います。
そんなこんなを思っていた頃、ある方に、文章の翻訳を頼まれました。ある作品集の中の日英翻訳です。
その文章が昨日届いたのですが、いやはや、いつもながらのとても詩的で美しい文章に、深く深く感動しています。
実はこの人、ある分野の人気アーティストで、元々は別の手段を用いながら、作品を発表している表現者。つまり、元々は文章書きのプロではないのです。その表現の幅を広げる為に、近年、文章にも力を入れるようになったのだそうです。
それが何故、これほどまでに、心に響く文章なのでしょう。
それは恐らくは、心に感じているものを、そのままストレートに文章にしているから。良く見せようと意識したり、あれこれ飾り立てたりしていないから。頭で理屈っぽいことを考えていないから。衒いのない、とてもシンプルな文章です。シンプルだからこそ、それだけに美しい。
これぞ、“魅力的な文章”の手本のようなものですね。見習いたいものです。
そうして、この人の文才を見抜き、書くことを勧めた人物もまた、凄い人だと、元編集部員としては、感心しきりであります。
さぁ、この美しさを壊さない英語にしないと…。こちらも珍しく、とても緊張しています。
……などと書き連ねながら、うーん、本日の文章も、100点満点には遠く及ばないなぁ…とげんなりです。
いや、でも、満足のいった時点で、もうそこで終わり。つまりあとはもう、引退しかないでしょう。でもまだまだそんな気など、更々ない私としては、ですから、“これでいいのだ!”…と、自分に言い聞かせながら、本日もパソコンを閉じるのでした……。