普通の常識人であることと芸術家であること
ご多分に洩れず、特に野球ファンではないものの、WBCの日本戦は、毎回欠かさずTV観戦していました。そうして対韓国戦を見るたび、つくづく思いました。
“強力なライバルを持つ者は、とても幸せだなぁ”…と。
互いの存在に奮起しながら、日々精進できること。勝負師としては、これ以上のことはないのでは…。
しかし、これが芸術家・ミュージシャンとなると、事情は少々違ってきます。
周囲のことを気にしてばかりいる人、同業者と自分を比較しては、苛々したり焦ったりしている人に、時々遭遇しますが、そういう人は概してスケールが小さい。華もなければカリスマ性もなく、長いキャリアを築くことも殆どない。
周囲が気になって仕方がない人は、それだけ自分を持っていないか、或いは自分に自信がない人なのでしょう。
自分のことしか見えない、自分のことしか興味がない。自分の世界に閉じ篭り、自分の感情とひたすら向かい合っては、悶々としている人。
芸術家・表現者とは、概してそういうタイプの人です。
そうして、心の中に渦巻き蓄積する感情を、外へ吐き出すこと、それがすなわち“表現すること”なのです。
つまり、そういう内に秘めた想いや、心の葛藤や、時には心の襞にこびり付く、ヘドロのようなものや、深い傷を持っているからこそ、受け手である我々を、魅了することが出来るわけです。
何かにとりつかれている人、そういう何かを持っている人、狂おしいまでにひとり戦っている人。そういう人でない限り、他者の心に何かを訴えることなど出来ません。
そんな話をすると、“そういう人達を相手にする仕事って、何かと大変じゃない? 普通の常識ある人達とはまるで違うだろうし”…とよく言われます。
その都度、なんとも不思議なそのコメントに、どう答えたら良いのか、どのような答えを期待されているのか、戸惑いを感じます。
まず、その“普通である”とか“常識がある”というのが、どういうことなのか、私にはどうもよく分からない。
それは“分かり易い人”“接し易い人”のことを差すのでしょうか…。でも、だとしたら、そんな人は、芸術家として酷くつまらない。いいえ、それ以前に、そんな人は芸術家や表現者には向かない、才能がない、決してなれないと思います。
そういう人には、他者の心を惹きつけることなど、到底できないでしょう。
ここで真っ先に思い浮かぶのが、80年代ハードロック全盛期、演る側も聴く側も、ひたすら弾けていた、華やぎある時代。その中のリーダー的存在だった、私の大好きなバンドのあるメンバーのこと。
この人、まぁ色々とヤンチャをやらかしていまして、“死亡した”と言うニュースが飛び交ったり、実際に死にかけたことが、何度もありまして…。
生まれ育ちからくる心の傷や、私生活などのトラブルを抱え、もがき苦しんでいました。しかしその感情を外へ吐き出し、ミュージシャンとして表現することが、思うように出来ず、そうしてその上、彼の生み出す$$$に群がる、周囲の怪しげな人々からの、無数の甘い誘惑もあったり…で、病院のICUに担ぎ込まれるような騒ぎを、あれこれ起こしてしまうわけです。
その辺の過去のことは、インタビューでも告白してくれていますし、自伝でも綴っているのですが、これがまぁとにかく、半端でなく凄まじい。
そんな彼などは、恐らくは、世間で言うところの、“普通”や“常識”などからは、まるでかけ離れているタイプだと思います。間違いなく。
でも、そんな“死にかけちゃった話”を多く持つ彼ですが、その心根はとてもピュアで繊細で、非常に美しい。
何よりもミュージシャンとして、人を魅了してやまない、半端でない才能と色気とオーラを持っています。
そうしてこれは余談ですが、周囲のスタッフに気を遣う、思いやりのある温かい人物でもあります。
中年と言われる年齢に達したいま(この年まで生き長らえるとは、周囲の人は言うまでもなく、ご本人も思っていなかったと思いますが〜笑)、昔のように、ICU送りになるようなことはなくなり、とても“穏やかで健康的な”日々を送っているようです。
それは多分、長いキャリアを積む中で、自分の心と上手く対峙し、感情をコントロールする術、心にぽっかりと空いた穴を埋める術、そうして周囲との程良い距離の取り方を、ようやく見出せたからなのだと思います。
それでも尚、そのルックスや姿勢は変わらず。エッジーで毒のあるロッカー然としたその雰囲気も、80—90年代当時のまま、まるで衰えていません。衰えるどころか、“色々と”経験してきた分、人間として表現者として、幅や深みや味が増し、その魅力に、より一層磨きが掛かってきた気すらします。
そうして、そのガラス細工のように繊細でピュアな心もまた、今なお健在。いち大ファンとして、嬉しい限りです。
話は戻りますが、
とにかく私は、仕事相手であるこのミュージシャン達に対し、世間で言うところの、“普通”やら“常識”とやらは、まるで期待していませんし、求めてもいません。
普通の人・常識ある人=才能ある魅力的なミュージシャンでは、決してありませんし、普通でない・常識がない=よろしくない人でも、絶対にないのです。
“いい人”…だけど、小さくまとまっていて、アーティストとしての才能や魅力に乏しい人には、まるでソソられませんし、会って話して応援したいという気持ちには、まるでなりません。
模範的な優等生、それはつまるところ、個性も味もない、限りなくつまらない人。少なくともこの世界では、そういうタイプの人が非常に多いと、私は常日頃感じています。
だいたい、そもそも、この“普通”とか“常識”とやら言うのは、いったい何なのでしょう?
…なーんて、話は振り出しに戻ってしまいますが……。あぁあ。