ある程度KYだっていいじゃありませんか!
仕事で邦楽アーティストと話す機会もあるのですが、自分の想いを伝えることが上手くはない人、語ろうとはしない人が多いことに気づきます。それも特に、若い人たちに目立つのが、とても気になります。
元々自分の意見を持っていないのか、自分の想いを言葉にするのが苦手なのか。あるいは、自分の想いに自信が持てないのか。それとも今でも、“男は黙って…”と思っているのか。私には分かりません。
翻って、洋楽アーティストたちは、年齢を問わず往々にして、自分の想いを伝えることが、実に上手い。自分の見せ方、相手の惹きつけ方を、とてもよく心得ていますし、そういうことに意識的に力を入れています。これでもかと言うほどに、みんな自己主張します。
巧みな話術。お見事です。
それはあるいは、それぞれの国の成り立ちや歴史の違い、そうしてそれに寄り添う、幼年期からの教育の違いにも、多かれ少なかれ、関係があるのかも知れません。
例えば、“Show and Tell”。カナダやアメリカの小学校低学年で、通常行なう授業のひとつ。その日その週の当番(生徒)が、自分の宝物や夢中になっているものを、学校へ持ち込みます。そうして何故それを選んだのか、何故それが好きなのか等々を、クラスメートの前で説明します。みんなに納得して貰うよう、自分で工夫しながら、文字通り“見せて話す”わけです。そうやって、自分の思いを第三者に伝えること、第三者を説得することなどを、学んでいきます。
その後の中学高校時代にも、発表会や討論会など、“話す機会”が数多く組まれているので、“話術”もどんどん鍛えられていくのでしょう。
日本の人々も、もう少し自分の想いを伝えよう、分かって貰おうという姿勢を持ち、その為の努力を、もう少ししても良いのでは…と思う時があります。もう少し、“セルフ・プレゼンテーション”“セルフ・プロデュース”が上手く出来たら、もっと活動し易いのに…と。
それは自らが生み出す作品を通して、己の想いを伝えるアーティストにも、同様に言えること。“let the music do the talking”と歌う、アメリカ人のロック・シンガーもいますが、でもそう歌いながらも、この御本人、“音楽にすべて託すこと”などせずに、自分の言葉を用いながら、実によく話します。“自分を魅せること”に、非常に長けている人です。
その作品に込めた自分の想い、どういう状況下で生まれ、何を表現したいのか…。その作品の魅力を世に知らしめよう、その魅力をより一層魅力的に見せよう、人に分かって貰おうとするあの姿勢は、あっぱれであります。これは、身につけているに越したことはない“力”だと、私は思っています。
でも誤解のないように。“私は、私は”…と、自己主張することばかりが、すべてではありませんし、美徳だとも思っていません。日本人の控え目で奥ゆかしいところ、周囲との調和を重んじるところは、とても素敵ですし、美しい面だと思っています。それは諸外国のアーティストもが、賛美する点でもあります。
でも……ああ…
これを書き出すと、話がどんどん逸れてしまいそうですが……
し…しかし……
逆に、周囲との調和を重んじるあまりに、他者の目、他者の顔色に敏感になり過ぎ、口を閉ざし、自分をなくしてしまうようでは、元も子もありません。“美徳”であるはず面が、逆に“空気を気にし過ぎてしまうこと”、ひいては“周囲と自分とを比較してしまうこと”に、繋がってしまうとしたら、それはとても痛々しいこと。周囲にいる者にとっても、あまり嬉しいことではありません。
あるいは、自分を表現する術を持ち合わせていないのではなく、言えない空気が周囲に漂っているのだとしたら、これまた別の話、由々しき問題だと思います。
話がますます逸れてしまいそうですが……
先日たまたま観たテレビ番組。色々な若者たちが登場し、意見を述べる番組。
その中で……
「結婚相手が医者だから、自分はたぶん勝ち組」と断言し、「部屋をきれいに飾り立て、そして友だちを招く。それは“自分がこれだけ幸せなのよ”ということを、みんなに見せつけるため」…と静かに説く若者。
観ていて、とても悲しくなりました。
幸せとは、勝ち負けでは語れませんし、だいだい人生、そう単純ではないはず。幸せとは、他の目の中に映るものでも、他のこころの中にあるものでもなく、それはあくまでも、自分のこころの中にあるもの。他者との比較により、見出せるようなものでは、けっしてないはず。
自分でやりたいこと、熱中できること、ワクワクするような、こころ満たされることを、いつか見つけられるといいですね。周囲の目など気にならなくなるほど、周囲の声に惑わされなくなるほどに、夢中になれる何かを…。
自分らしさ、自分の幸せを、いつか掴めるといいですね。
「携帯などで、常に繋がっていたい。繋がっていないと、不安になる」…と告白する若者。
“誰かと繋がっていたい”というその気持ち、それは大切にして欲しいと思います。携帯やメールで絶えず連絡を取り合い、安心感を得られること、きっとあるでしょう。でもその相手と直接会い、その人と言葉を交わすのも、とても気持ちのいいもの。より深いところで繋がり、より豊かな人間関係が、築けるのではないでしょうか。
それからもうひとつ。時々ひとりになるのも、なかなかいいものですよ。それを実感できたなら、人生もっと心地好くなるはず。誰かと繋がっている時や、群れている時には感じられない何かを、そういう静かなひと時の中で、絶対に得られるはず。ひとりになって初めて、見えてくるものだって、たくさんあると思いますよ。
人と繋がる力と同時に、ひとり時間を楽しめる力、それから、携帯だけの繋がりではない、もっと“活きた”人間関係を、育めるといいですね。
「価値観が違う。だから友達にはなれない」…と言い放つ若者。
そんなの、もったいない! 違うからこそ、興味深いことに、たくさん出会えるのに。価値観の異なる者同士が集えば、新しい世界が覗けます。新しい経験が出来ます。異なる意見がぶつかり合うことで、新しいもの、新しいアイディアがどんどん生まれ、人生も仕事も、どんどん厚みが増し、豊かになると思います。
今後、自分とは異なるタイプの人と、どんどん出会い、どんどんぶつかり合い、そうして新しい世界や、新しい自分を発見できるといいですね。
「すぐに答えを出したがる、結果を求めたがる」…そういう若者。
そんな忙しい人生、疲れませんか? だって
生、短距離走ではなく、長距離走ですから。先はまだまだ長いですよ。今からそんなに焦っていては、息切れしちゃう。自分が可哀そう。答えなんて、あるいは、最後の最後の瞬間まで、出ないものかも知れませんし。でも、それでも良いではありませんか。答えなど、無理に出さなくても。
今日と明日、あの瞬間とこの瞬間。点と点とが、時間の流れの中、知らず知らずの内に、ゆるりゆるり繋がってゆき、やがては一本の線となってゆくもの。その繋がるさま、それこそは、人生の醍醐味。
そう焦らずに、ゆったり余裕ある人生、歩みましょ。
まぁねぇ、あれこれ悶々とすることだってあるでしょう。特に若い頃は…。それも貴重な時代。でも、大丈夫。後々に振り返り、その時その時の悩みや、出会いや別れの意味を悟っては、“ああ、なんだ、そういうことだったのか!”…と雄叫び上げたくなる瞬間が、きっとくることでしょう。
自分のこころと、静かに向かい合ってゆけば、やるべきことは、自ずと見えてくるはず。そうすれば周囲の目など気にせずに、自分の判断により行動し、自分の想いもはっきりと、他者に言えるようになるでしょう。そうしてゆく中で、自分の歩むべき道も、自ずと見えてくると思います。
必要以上に、“空気の読めるひと”“空気を読もうとするひと”“摩擦を避ける為に、自分の感情を抑えるひと”など、そんな“お利口さん”に、ならなくても別にいいじゃありませんか!