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無知よりも怖いのは無関心

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通訳・翻訳者リレーブログ

この世界は非常に複雑であり、人の心もまた非常に難解である。見聞きするものと実情とが、まるで異なるものの、なんて多いことか。
歴史とは個々の都合により、書き上げられた物語であり、その“絵”はどこから眺めるかにより、まるで違う景色に見えてくる。
マスコミは様々な思惑に沿った報道をし、国民はその作られたイメージを信じ踊らされ、そうとも知らずに、歓喜したり憤ったり泣いたり笑ったり。

人は安易な生き方を選びたがる。自分と同じ種の者と群れ、なぜか安心する。同じ人種、同じ肌の色、同じ国籍、同じ宗教などなど。“仲間”とツルんでは、その絆を強めようと懸命になる。周囲にバリア張りめぐらせ、分かり合えないと思い込む、“異なる者”の侵入を防ぎ、ひとつの地に安住し、そこですべてが完結する。

異なる意見をぶつけられると、自分自身をも全否定されたと勘違いし、その相手に対し敵対心を抱き、感情的になったり、過激な行動に出たり。自分とは異なる者との対立や、それを排除しようとする思いだけが、生きる原動力になることさえある。

知らない、知りたくない、関心がない、忙しい、面倒。異なるものは嫌い。ああ、なんて悲しいことなのでしょう。

話は飛びますが、10代の頃、南米某国のアメリカンスクールに通っていた70−80年代当時、“今でもハラキリをやるのか”“日本には車はあるのか”“日本人はテンプルに住んでいるのか”“学校の制服はキモノか”“ニンジャをどこに住んでいるんだ”などと、時々聞かれたものです。それも真顔で。無理もありません。図書館にあった日本紹介本を開くと、フジ・マウンテンにサムライにゲイシャにニンジャ。そんなモノばかりでしたから。現在ではさすがに、あのような本は出回っていないでしょうし、世界の人々の知識は、あんな程度のものではないと思いますが。思いたいのですが。

それにしても、罪深き日本。此の国のプレゼンテーション能力の欠如は、あの頃から変わっていないのか。けれど考えてみれば、そうやって質問してくれていただけでも、とてもありがたいこと。いまではそう思っています。だって日本に興味を持っていた…ということなわけですから。

無知とは、なんて恐ろしいことか。
しかし、無関心はもっと恐ろしい。

幸運なことに現在では、フェイスブックなどのお陰で、自分の思いや周囲の景色、置かれている状況などについて、簡単に他者に伝えられます。伝えられたその内容に、こころ動かされた受け手もまた、その思いを返すことで、そこにひとつの交流が生まれます。それだけではなく、それを別の誰かに伝えることだってできる。そうやってひとつの思いや風景が、海を渡り、世界中に散らばっていく。まるで蜘蛛の子が風に乗り、遠く遠くへと運ばれていくように。

目の前にある光景にこころ動かされたら、すぐさまスマホを取り出し、それをカメラでパチリ。その写真に、その時の思いや状況をひとこと添え、フェイスブックにポストする。すると目の前の光景は、瞬く間に世界中の友の元へ。それを見た彼等もまた、すぐに“見たよ!”…とLikeを押したり、意見を書き込んでくれたり。そうやって数時間の内に、世界中に住む大勢の友人達が、いまの日本の姿を眺めることができる。
ここ2-3週間だけでも、色々な写真に対し、さまざまな反応がありました。例えば、表参道の写真を載せたら、“こんなに高級ブランド店が並んでいるのか”とびっくりされ、伊勢神宮を紹介したら、“緑の色が自分の国とは異なる”と感動され、おかげ横丁で購入した竹細工に、“素晴らしすぎる”とべた褒めされ、下町の写真を見せたら、“なんて面白いんだ”との感想が続けざまに入ってきたり。

それまで知らなかったことに触れ、関心を持つこと。そうやって、それまでは遠くに感じていた、友人の住む小さな島国について、少しずつ知ることができる。知って貰える。だからかどうか、定かではないのですが、友達はみんな、日本のことにそうとう詳しい。中には“納豆が大好き”“蕎麦を週イチ食べる”“ボンサイに嵌まってる”などと言う者もいるほど。

こちらもまた、過去に住んでいた国々や、世界中の国々や周辺の本当の姿を、オンタイムで見て、感じることができる。世界中の今日の天気、深々とした雪道や、美しい桜並木を、みんなで一斉に眺められる。なんてロマンチックなことなのでしょう。
彼等のお陰で、アメリカの色々な顔を知っていますし、南米料理は大好きですし、イスラム教徒のことを身近に感じていますし…。書き出したら、キリがありません。

余談ですが、その南米某国は現在、恒例の同窓会お祭り週間です。その為フェイスブックには、街中や郊外の懐かしい写真が、連日続々と入ってきている。週末、学校敷地内で開催されたパーティーの模様は、友人代表がビデオ実況中継してくれました。“今回参加できなかった、遠くに住むみんなへ”…と。なんとも粋なはからい。

そんなことは、ちょっと前までは想像もしなかったこと。
写真を撮り、フィルムを写真屋へ出し、上がったネガを写真屋へ取りに行き、焼き増ししたいものを家で選び、ネガをまた写真屋へ持ち込み、出来た紙焼きを写真屋へ取りに行き、家で手紙を書き、封筒にその手紙&写真を入れ、封をし、最寄りの(=けっして近くはない)郵便局へ足を運び、切手を貼り投函し、その返事が来るのをひたすら待つ。そうやってすべてに“決着”がつくまでに、最低で2週間、場合によっては数か月。よくもまあ、そんな悠長なことしていたと思う。不便な時代だったと言うのか、のんびりした時代だったのか。

話を戻して…。世界の現状を知る手段として、この最適なテクノロジーを使わない手はない。スマホとフェイスブックは連動していますし、最近のスマホのカメラは、その辺のカメラもびっくりの写りよう。それに動画だって素晴らしい。

人は何かに触れれば、それに興味を持ち、知れば知るほど、その対象に温かな思いを抱くものです。知ることにより、新たな世界へと導かれ、その先々には、素晴らしい出会いもあるかも知れない。さまざまな衝突も、それにより避けられるかも知れない。双方に誤解や疑念があるのだとすれば、それだって晴らすことも可能でしょう。

未知なるものに触れる機会、それがなければ何も始まりません。知らないことは恐ろしいこと。とてもとても小さな点でも、その点と点が繋がりさえすれば、何か大きなものが生まれるもの。

“人は完全に分かり合える”などと信じるほど、わたしは純粋でお

よしな人間ではありません。しかし完全に分かり合えなくても、相手を受け入れることはできる。マスコミがどんなことを言おうと、政治家がどんな行動を起こそうと、我々民間レベルでは、互いを認め合い、上手くやっていく方法は、幾らでも見出せると信じています。

そんなわけで都内に地方に、山に海に川に湖に、スマホと大中小のカメラぶら下げ、時間を見つけては春夏秋冬、古い日本&新しい日本、色々な顔色を求め、日本中を駆け巡る今日この頃。小さなこと、それでも。

異なるものに対する想いや、想像力の欠如は、最大の敵。好奇心は猫を殺すと言うけれど、我々人間を救うのは、この好奇心だと信じています。

無知よりも怖いのは、無関心です。

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記事を書いた人

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高校までをカナダと南米で過ごす。現在は、言葉を使いながら音楽や芸術家の魅力を世に広める作業に従事。好物:旅、瞑想、東野圭吾、Jデップ、メインクーン、チェリー・パイ+バニラ・アイス。

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